今年(2025年)は抗日戦争勝利80周年にあたり、駐日代表の李逸洋氏が初めて原爆記念式典に出席した。長風文教基金会が主催し、《風傳媒》と聯経出版が協力する形で、16日には米国スタンフォード大学フーヴァー研究所研究員の郭岱君氏を招き、「烽火未歇―抗戦勝利から山河分裂への岐路 」と題する講演が行われた。郭氏は講演の中で、当時もし二発の原子爆弾が投下されなかったとしても「日本は勝てず、中国も負けなかった」と断言し、原爆は戦争を早期に終結させたに過ぎないとの見解を示した。
中国の「持久消耗戦」戦略が日本を追い詰める 日本のような強大な敵を前に、当時の中国は貧しく遅れた国であり、軍民は甚大な犠牲を強いられた。それでも最終的な勝利を収めることができたのはなぜか。抗戦史を専門とする郭岱君氏は、その理由について「中国の正しい抗戦大戦略にあった」と指摘する。郭氏によれば、当時の中日両国は軍事力の差があまりに大きく、正面からは戦えない状況にあった。そこで蔣介石は、ドイツの軍事顧問アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンや蔣百里、陳誠らの助言を取り入れ、日本に対抗するための「持久消耗戦」という大戦略を策定したのである。
「日本が速さを求めるなら、中国は遅さで応じる。日本が速戦即決を望むなら、中国は引き延ばす」。郭氏はそう語り、中国がどれほど大敗しても降伏せず、日本を苛立たせたと説明する。その結果、日本は首都南京への攻撃を決定し、南京大虐殺を引き起こしたが、それでも国民政府は交渉に応じなかった。やがて国民政府が「三陽一線」(洛陽・襄陽・衡陽)へ退き、平原から険しい山岳地帯へ戦場が移ると、日本は攻めあぐね、持久戦で疲弊する結果となった。郭氏はこれを「日本を消耗し尽くす正しい戦略だった」と位置付ける。
さらに郭氏は、蔣介石や中国軍の将校たちは日本に軍事的勝利を収められるとは考えていなかったが、「中国は広大な国土と豊富な人口を持ち、持久に耐えられる。一方、日本は耐えられない」との認識を持っていたと語る。また、日本が戦略的な誤りを犯した点も勝因の一つだという。すなわち中国が淞滬で第二戦線を開いたことで、日本の主力は華東に投入され、華北に残されなかった。日本参謀本部も、蘇州や嘉興の線を越えての進軍は困難だと感じていた。だが戦況はすでに泥沼化し、日本軍は三か月にわたり激戦を繰り広げても国民政府が屈服せず、結局は長江を西へ追撃する形となった。しかし日本は戦えば戦うほど資源を消耗し、最終的には長沙を占領する力すら失ったのである。
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1937年12月、日本軍は南京大虐殺を引き起こし、その中で少尉の向井敏明と野田毅が「百人斬り競争」を行ったことは、象徴的な事件の一つとして知られている。(写真/ネット資料より)
軍民の結束と正しい指導、日本の戦略を無力化 「中国人は数千年来、常に“天高く皇帝遠し、帝力我に何かあらん”という態度で、国家権力に距離を置いてきた。だが抗戦期においては、軍民が史上かつてない大団結を示し、蔣介石の不屈の指導力が発揮された」と郭岱君氏は語る。同氏はさらに、もし当時の中国が汪精衛に率いられていたなら、歴史はまったく異なるものになっていただろうと断言する。蔣介石は日記の中で少なくとも三度、上帝に祈りを捧げ、国民党軍が戦いを持ちこたえられるよう願ったという。「これは実に悲しいことだ。なすすべもなく、援軍もなく、戦いは非常に苦しかった。それでも蔣介石は耐え抜いた」と郭氏は述べている。
また郭氏によれば、日本側は実際に何度も早期終戦のための和平を模索したが、いずれも成立しなかった。蔣介石が譲らなかった底線は「盧溝橋事件以前の状態に戻すこと」、すなわち日軍が華東・華北から全面撤退することだった。1937年末の南京防衛戦が始まる直前、日本がドイツ駐華大使オスカー・パウル・トラウトマンを介して和平条件を提示したが、蔣介石の譲らぬ姿勢の前に交渉は行き詰まった。「失敗そのものは恐れるに足らない。しかし一度でも屈辱的な条約に署名すれば、中華民族は永遠に束縛される」と、蔣介石は周囲との激しい議論の中で語ったという。
一方で郭氏は、中国の戦略的成功とは対照的に、日本の戦略は誤りであり失敗だったと指摘する。日本は当初から中国を侮り、さらに「貪欲すぎて身を滅ぼした」。李宗仁が比喩したように、中国は広大で人口も多く、日軍が一個師団ずつ進軍しても、あたかも醤油を一滴ずつ水に垂らすようなもので、最後には醤油が瓶からすべて滴り落ちても水は変わらず、醤油はかき消されるだけだった。郭氏は「日本はこうして八年間、中国戦場に六十から七十個師団を投入したが、結局は泥沼にはまり、進退両難となった」と総括している。
抗戦勝利の代償と内戦を迎える必然的な結末 「もし二発の原子爆弾がなければ、中国は勝てなかったのではないか。日本人はよく『原爆が落とされたからこそ無条件降伏した』と言う」。郭岱君氏はこうした見方に対し、全く異なる意見を提示する。氏の見解では、たとえ原爆がなくとも、中国の持久戦は日本を消耗させ、最終的に敗北へ追い込んだはずだという。実際、日本は四川攻略を試み、幾度も計画や演習を行ったが、遂に実現できなかった。「仮に四川に攻め込まれても、中国には雲南や貴州へ退く余地があった。要は中国には時間があり、日本にはなかった」と郭氏は指摘する。
1945年9月3日、重慶では抗戦勝利を祝う大規模で前例のない大会が開かれ、市民は中・米・英・ソの四か国の国旗と蔣介石の肖像を掲げて行進した。 (写真/国史館提供) したがって郭氏は、日本の敗北は不可避であり、原爆はその降伏時期を早めただけだと結論づける。同時に原爆の投下は、さらなる犠牲を回避した側面もあったと述べる。郭氏は「中国は近代戦争を遂行する能力を持たなかった。多くの兵士は飛行機を見たこともなく、士官の中には地図を読めない者もいた」と語り、「それでも日本が侵略してきた以上、戦わざるを得なかった」と振り返った。抗戦の勝利は「辛勝」に過ぎず、国土は荒廃し、経済や交通は壊滅的な打撃を受け、国力は著しく損なわれたのである。
郭氏はさらに、郝柏村の言葉を引用する。「蔣介石が内戦を決意した時点で、すでに敗北は運命づけられていた」。オランダの歴史学者ハンス・ファン・デ・フェンの研究や、郭沫若の『甲申三百年祭』も、1944年の時点で中国は混乱と民怨に覆われ、抗戦勝利後には国民政府の統治基盤が崩壊していたことを指摘している。決定的だったのは、当初は中国を東アジアの反共の拠点として支援しようとした米国が、やがて日本支援に転じ、戦後の国際秩序は蔣介石の想定と大きく異なる展開を見せた点である。郭氏は「人間も国家も同じで、敗北の中にこそ機会が芽生えるが、勝利の中に敗因の種が宿ることもある」と総括した。