今年(2025年)は抗日戦争勝利から80周年にあたる。長風文教基金会はこの節目を記念し、米国スタンフォード大学フーバー研究所を退任したばかりの抗戦史研究者・郭岱君氏を招き、16日に「烽火未歇―抗戦勝利から山河分裂への岐路」と題する特別講演を開催した。講演は《風傳媒》と聯経出版が共催したものである。郭氏は蔣介石の日記の原文を引用し、抗戦勝利にもかかわらず蔣介石 が「少しも喜びを感じなかった」ことを指摘した。日記の中で最も頻繁に登場する語は「憂」と「辱」であり、その背景には「ロシア(スターリン)」と「共産党(毛沢東)」への強い懸念があったと説明した。これらの不安は、国内各地での受降処理や東北の旧領土の接収に大きな影響を及ぼしたという。
国民政府の撤退続き、東北の受け入れに困難 まず国内の側面について、郭岱君氏はこう述べた。1945年の抗戦末期、国民政府は各地で敗走を重ね、西南の一角に退くしかなかった。一方で中共は日本占領区に次々と根拠地を築き、土地改革を実施し、幹部を養成するなどして勢力を拡大していたため、国民政府にとってこれら地域を戦後に接収することは極めて困難であった。さらに東北では日本が傀儡国家「満州国」を樹立しており、西南に逼塞する国民政府の手は到底及ばず、戦後に立ちはだかる二大難題となった。
郭氏は具体的な数字を示しながら強調した。1937年当時、八路軍は4万人余の編制にすぎなかったが、1945年には60万人規模の主力部隊にまで膨張した。新四軍も当初の1万人余から26万人にまで増強されていた。さらに中共は華北、華東、華南など敵後地域に19の解放区を築き、1億人の人口を統治、日本占領区の67%の土地を掌握していたのである。「国民政府軍は全く力を及ぼせず、兵力を送り込むこともできなかった。極めて深刻な挑戦であった」と郭氏は述べた。
国際的側面について、郭氏は「天意弄人、万般無奈(運命に翻弄され、どうしようもなかった)」という八字を用い、「ソ連要因」を説明した。ソ連は1945年8月9日に対日参戦を宣言したが、そのわずか翌10日、米国が日本に原子爆弾を投下したため、「ソ連は実に幸運であった。参戦からわずか15時間で日本は降伏した」と語った。しかし当時、ソ連軍はすでに東北に進駐しており、容易に撤退するはずもなく、これもまた国民政府にとって大きな難題となったのである。
1945年8月6日、米軍は日本の広島市に原子爆弾を投下した。これは人類史上初めての核兵器による空襲であり、約14万人が死亡した。3日後には長崎市にも2発目の原子爆弾が投下され、最終的に日本は降伏し、第二次世界大戦は正式に終結した。(写真/AP通信提供)
恩を仇で返すが政策ではなく、緩和の真意 実際には、戦勝後に連合国はこの戦争を国民政府が戦ったものと明確に認め、マッカーサー(Douglas MacArthur)を含む各国の指導者は、日本は国民政府に降伏すべきだと表明した。当時、日本派遣軍総司令の岡村寧次や汪精衛政権の軍隊は直ちに連合国の命令に従い、蔣介石およびその代表に降伏した。郭岱君氏によれば、蔣介石 は抗戦以前から「反共」を日本と共に行う必要があるならば、日本と敵対関係を解き、和解する道も考えていたという。
1945年8月15日、蔣介石は「抗戦勝利を全国軍民および全世界の人々に告ぐる書」を発表し、その中で「『過去の悪を念じず』『人に善を尽くす』は我が民族伝統の最高かつ最も尊い徳性である。我々は一貫して、日本の軍閥のみを敵とし、日本国民を敵とするものではない」と述べた。日本のメディアはこれを「徳をもって怨みに報いる」と評し、蔣介石 の寛大な対日姿勢を伝えた。郭氏は、この「以徳報怨」は具体的な政策ではなく、あくまで理念に近いものであったと説明している。
日本は蔣介石の寛大な方針に深く感謝し、約束を守って中共への接収を拒否した。中共が武力で接収を試みた場合でも、日本側は共産軍と交戦してでも国民政府の権益を守り、国府の接収を待ったという。さらに郭氏は、戦後に中国側が日本から実際に賠償を受け取ったことを明らかにした。累計22隻の船が日本に派遣され、総額2,000万ドル超、1万2,000箱以上の海運設備を受領し、さらに24隻の軍艦も分配されたのである。問題は、日本の対中賠償が本来の10分の1しか履行されず、1949年5月12日に打ち切られたことであった。その理由は何であったのか。
郭岱君氏は、その主因について、極東情勢の変化にあったと分析する。冷戦の幕開けを目前に、米国はソ連に対抗するため日本を支援し、日本の経済復興を急がせる方針を固めた。その結果、米国が東アジア政策を転換する中で、中華民国に対し日本への賠償請求を放棄するよう要求したのである。
さらに郭氏は、戦後における蔣介石の対日姿勢について、別の観点も提示した。蔣介石 には独自のアジア戦略構想があり、戦後のアジア諸国は米国に依存せず、またソ連にも傾斜せず、アジア自身の国際秩序を構築すべきだという考えを抱いていたという。その目的は、植民地主義勢力と共産主義の双方に対抗するため、アジア諸民族が団結することにあった。
蔣介石の誤判断、東北の敗局が明らかに 東北問題に焦点を当てると、ソ連が「体裁の悪さを承知しながらも、堂々と東北を占拠した」理由について、郭岱君氏は1945年初頭に米・英・ソが締結した《ヤルタ秘密協定》にあると指摘した。「中国に隠して署名しただけでなく、中国の権益をソ連に譲り渡した。これはきわめて不道義な行為であった」と語る。
米英がソ連にこれほど大きな譲歩をした背景について、郭氏はこう解釈する。当時、欧州戦線の情勢はすでに楽観視できる段階にあったが、アジア戦線は依然として停滞し、とりわけ中国戦区は兵力が疲弊し、国土も荒廃しきっていた。米英はこれ以上の兵力を犠牲にしたくないと考え、その打開策として、何としてもソ連を対日戦に参戦させる必要があったのである。
1945年2月のヤルタ会談で、米・英・ソの三大首脳は中国の権益を交渉材料とし、ソ連の対日参戦を取り付けた。(写真/AP通信提供) 郭岱君氏は、ソ連がほとんど戦闘を経験しないまま日本降伏という結末を迎えた状況を「天意如此(天の定め)」と表現した。その結果、国民政府はやむなく《中ソ友好同盟条約》を締結するに至った。同時に米国は国共双方に連合政府樹立を繰り返し促したが、重慶会談はきわめて不調に終わった。両者の主張はあまりにかけ離れており、最終的に蔣介石は「婦人の仁」ともいえる判断で毛沢東の重慶離脱を許した。
中共は先手を打って東北に進駐したが、国民政府は到着が二か月遅れたうえ、ソ連からもさまざまな妨害を受けた。郭氏は、美ソの角逐が背後の決定的要因であり、東北の接収が難航したと指摘する。さらに米国のジョージ・マーシャルによる調停も失敗し、貴重な一年以上の時間を失った。その間に蔣介石の対外方針は「親米友ソ」から「親米拒ソ」へと転換し、東北戦線を拡大したことで、かえってワシントンとの齟齬を生んだ。
郭氏によれば、マーシャル調停が挫折した時点で東北の敗局はすでに兆しを見せていた。1948年に遼瀋戦役が勃発すると、蔣介石の重大な軍事的誤りが重なり、各方面からの圧力の下で下野し、副総統の李宗仁が代行大統領に就いた。1949年8月5日には米国務省が《対華白書》を公表し、実質的に中華民国を見限り、戦略の重心を日本へ移したのである。郭氏は「蔣介石には当然責任がある。多くの場面で判断を誤り、東北における米ソの複雑な駆け引きを過小評価し、自身の反共陣営内での不可欠性を過大評価した」と厳しく指摘した。