今年は日中戦争および第二次世界大戦の勝利から80周年を迎える。蔡英文政権を引き継いだ頼清徳総統は今年4月、ヨーロッパ戦勝を肯定する立場を明確にし、「欧戦勝利茶会」を開催した。しかしその一方で、与党・民進党による「台湾光復」否定論や、米国在台協会(AIT)が示した「台湾地位未定論」をめぐる議論が再燃し、社会各界で歴史的論争や米中対立下での戦略的思惑に改めて注目が集まっている。
同時に、中国共産党も国内外で政治的な動きを強め、「九三軍事パレード」を再び盛大に実施。自らを「抗戦勝利の主体」「国際秩序の維持者」と位置づけるプロパガンダを展開している。そうした中、10月25日の「台湾光復節」を前に、国立政治大学歴史学科の劉維開名誉教授と、台湾大学政治学科の張登及教授が、それぞれ歴史と国際関係の観点から講演を行い、台湾が中華民国に帰属した歴史的・国際法的根拠、そして大国政治の裏にある深層構造を読み解いた。
台湾大学政治学部の張登及教授が18日、長風基金會の講座に出席した。(写真/顏麟宇撮影)
「光復」は指導者の意志に左右された? 長風基金会が主催する「台湾光復の歴史的事実と『台湾地位未定論』をめぐる論争」と題した講座が、土曜日の午後、台大会議センターで開催された。会場には百人を超える聴衆が詰めかけ、熱気に包まれた。
基金会理事長で元行政院長の江宜樺氏は冒頭の挨拶で、「今回、このテーマを取り上げることを決めたのは、いくつかの特定のニュースがきっかけだった」と述べた。具体的には、民進党の徐国勇秘書長が「台湾光復節など存在しない」と発言したこと、そして米国在台協会のコメントが挙げられる。江氏は「こうした言説がなぜ生まれたのかを改めて議論し、歴史の脈絡を整理するとともに、この時代における政治的意味を考える契機にしたい」と語った。
台湾はどのようにして中華民国へ帰属したのか 講演に立った劉維開氏は、「台湾光復は当然の流れのように思われているが、歴史の発展を振り返ると、台湾の中国版図への復帰は一足飛びではなかった」と指摘した。「当初、国民革命の目標として『台湾の収復』が掲げられ、抗戦勝利と日本の降伏を経て、ようやく台湾が光復に至った」と述べた。
劉氏によれば、この過程で最も重要だったのは、国父・孫文と初代総統・蔣介石の「意志」であったという。興味深いことに、孫文は台湾を訪れた経験を持つものの、その言説の中で台湾を語る際は主に日本の植民地統治との関連で触れており、「台湾の収復」を明確に主張した記録は見つかっていない。
一方で、劉氏は蔣介石が1945年11月の演説で次のように述べた事実を紹介した。蔣が1914年に中国東北部を視察した際、孫文からこう語られたという。「日本人がもし東北と台湾を我々に返還せず、朝鮮の独立を保証しないなら、我々の国民革命運動は終わらない。君はこの意思を日本の将官に伝えなければならない」。
慶祝台灣光復(1945年)(圖/方格子)
蔣介石の「台湾収復」予言とは? 劉氏 によれば、蔣介石の「台湾収復」に対する主張は、日本の対中侵略が拡大する中で徐々に形成されていったという。特に注目すべきは、1931年の「満州事変(九一八事変)」以降の動向である。
「10年以内に台湾を取り戻す」蔣介石の日記に残された決意 1932年3月、日本は中国東北部に「満洲国」を建国し、同年9月にこれを承認した。蔣介石はこの時期の日記において、「10年以内に台湾を取り戻す」との重大な見通しを記していた。
1932年9月13日付の蔣介石の日記にはこうある。「中華民国31年(1942年)の中秋節には、東三省を回復し、朝鮮を解放し、台湾・琉球を取り戻すことを期す」。
さらに翌1933年2月、日本軍が熱河省に進攻した際、蔣介石は同年3月12日、石家荘で開かれた孫文逝去8周年記念式典で次のように演説した。「8年後には東三省を回復するだけでなく、台湾と琉球をも取り戻す」。
劉維開氏は、「この頃、蔣介石の『復台』思想が明確に意識化された」と指摘する。
「恢復高臺、鞏固中華」国民党の伝統政策へ 1935年12月に蔣介石が行政院長に就任すると、「復台」の理念は国民党の伝統政策として正式に位置づけられた。1936年1月16日、蔣介石は南京の勵志社で全国の中等学校以上の校長および学生代表を前に講話を行い、こう述べた。「我々国民党の伝統政策は、孫中山総理が定めた二つのスローガン『恢復高臺(コウフク・ガオタイ)・鞏固中華』である」。
劉氏によれば、「恢復高臺」とは「高麗と台湾の地位を回復する」という意味であり、今日の韓国と台湾を指す。蔣介石はこの演説の中で少なくとも四度この言葉を繰り返し、当時の国民政府のすべての戦略は、この「根本国策」に基づいて決定されていると強調したという。
抗戦以前は「時期尚早」孫科の冷静な見方 一方、孫文の息子で元行政院長の孫科は、「抗日戦争が勃発する以前、中国にはまだ台湾を取り戻すだけの力はなかった」と述べている。しかし、1937年7月7日の「盧溝橋事件」をきっかけに全面的な抗日戦争が始まると、蔣介石と中国国民党はついに「台湾収復」の希望を見出すようになった。
民国35年(1946年)、蔣介石氏と夫人が来台し、第1回台湾光復節記念大会を主宰。台北の中山堂前で全省から集まった民衆の歓呼と拝礼を受けた。(写真/林尤超提供)
台湾はいつ中国領となったのか? 1941年末に「太平洋戦争」が勃発すると、台湾の収復は現実的な可能性として浮上した。中華民国政府が日本に正式に宣戦布告し、両国間のすべての条約・協定・契約を無効としたことにより、「下関条約(馬関条約)」も廃止された。
劉氏は次のように強調している。「法理上、中国が日本に対して宣戦布告したその日から、台湾はすでに中国領土の一部として回復されたことになる」。
台湾民衆も「光復」に期待 劉氏によると、1942年11月1日、日本が「大東亜省」を設置した直後の11月3日、当時の中華民国外相・宋子文が重慶の国際宣伝処で記者会見を開き、戦後の中国領土の回復範囲について質問を受けた際、次のように回答したという。「中国は東北四省、台湾および琉球を回復し、朝鮮は独立すべきである」。
劉氏はこれを「中国政府の公式立場を明確にした重要な発言」と評価している。
太平洋戦争勃発後、中国大陸の台湾出身者も希望を抱く 劉氏はまた、1941年に太平洋戦争が勃発した後、中国大陸で活動していた台湾出身者たちは、日本の植民地支配からの解放に強い期待を寄せていたと指摘する。
その象徴が、国民党中央組織部の支援によって1941年2月、重慶で設立された「台湾革命同盟会」である。これに続き、独立した武装組織として「台湾義勇隊」と「台湾少年団」も相次いで発足した。いずれも「台湾の祖国復帰」を掲げた組織であり、中国国内でも注目を集めた。
蔣介石『中国の運命』と「台湾収復」の戦略的重要性 1943年3月、蔣介石は著書『中国の運命』を出版し、その中で国防上の観点から「台湾を取り戻すことの重要性と必然性」を論じた。同年8月、外相の宋子文は英国ロンドンで記者団に対し、「中国は失地の回復を目指すが、領土的野心は持たない。日本の敗北後に東北と台湾を回復することを望む」と改めて表明した。
劉氏は「この発言によって、中国が台湾を自国領として取り戻す構想が、外交的にも明確化された」と述べる。
蔣介石氏夫妻とフランクリン・D・ルーズベルト米大統領がカイロ会談で並んで撮影した写真。米国大統領にとって中国がいかに重要な地位を占めていたかを示す一枚である。(写真/国史館「カイロ宣言70周年記念特展」より引用)
「開羅宣言」とその意義 中国が初めて国際舞台で主導的役割 1943年11月、中英米の三大国首脳が署名した「開羅宣言」について、劉氏は次のように解説する。「開羅会議は、中国がアヘン戦争以来、初めて国際政治において重要な役割を果たした場であり、また中国国家元首が初めて出席した国際首脳会談でもあった」。この会議の準備段階で、蔣介石は複数の政策案を策定しており、その一つが「台湾の収復」であったという。
さらに1945年7月、米・中・英の三国首脳が発表した「ポツダム宣言」第8項では、「開羅宣言の条件は必ず実施される」と明記し、日本の主権範囲を「本州、北海道、九州、四国および連合国が指定する小島」に限定する旨を再確認した。
この「実施条件」の中には、当然ながら台湾と澎湖諸島の中華民国への返還が含まれている。
「開羅宣言」に歓喜する台湾出身者たち 劉氏は講演の中で、「開羅宣言」の発表後、中国大陸に滞在していた台湾出身者の多くが感激し、「台湾の収復」が現実的な希望として受け止められたと語る。
たとえば、台湾革命同盟会は蔣介石宛に祝電を送り、「報道により開羅会議の大成功と、台湾・澎湖の中国への返還を知り、我々台湾同胞一同は深く奮い立った。どうかお導きを賜り、命を懸けて尽くす覚悟である」と記していたという。
台湾省の代表が台湾光復への感謝として錦旗を贈呈し、蔣介石元総統が満面の笑みで受け取った。(写真/林尤超提供)
「失って、再び取り戻す」台湾の位置づけ 講演の最後で劉氏は、1944年に国防最高委員会・中央設計局が発表した「復員計画綱要」についても触れた。 この計画では、戦後の復員地域を「後方区」「収復区」「光復区」の三つに区分していた。
劉氏によると、同綱要で定義された「収復区」とは、1931年の「満州事変(九一八事変)」以降、日本および傀儡政権によって占領されていた地域を指し、戦勝後に取り戻された東北や華北の平津地区などがこれに該当する。
一方、「九一八事変」以前に日本に租借または割譲された地域は、戦後「光復区」と呼ばれた。したがって、台湾地域こそが「光復(再び光を取り戻した地)」に該当する。これが劉氏の結論である。