日本の戦後政治を象徴する人物の一人であり、戦後50年の「村山談話」で日本の侵略と植民地支配を公式に謝罪した村山富市(むらやま・とみいち)元首相が17日午前、九州・大分市内の病院で老衰のため死去した。享年101歳。
1924年3月3日、大分県大分市生まれ。11人兄弟の6番目として育った。明治大学政治経済学部を卒業後、地元で社会党の活動に参加。大分市議を2期、大分県議を3期務めた後、1972年の衆議院選挙で旧大分1区から初当選し、以後通算8期を務めた。社会労働委員会で年金・医療制度など社会保障政策に尽力し、1991年に国対委員長、1993年に党委員長に就任した。
自社さ連立で首相就任 阪神大震災やサリン事件に対応
1994年6月、羽田孜内閣の総辞職を受け、自民党・社会党・新党さきがけの3党連立により第81代首相に選出された。社会党出身の首相は片山哲氏以来47年ぶりだった。
首相就任後、社会党の基本政策を大きく転換し、自衛隊を「合憲」と認め、日の丸と君が代を国旗・国歌として容認した。1994年7月にはイタリア・ナポリでの主要国首脳会議(サミット)に出席し、当時のクリントン米大統領に日米安全保障体制の維持方針を伝えた。
在任中の1995年1月には阪神・淡路大震災が発生。自衛隊派遣の遅れなど政府対応が批判を受けた。同年3月には地下鉄サリン事件、さらに全日空機ハイジャック事件など相次ぐ危機への対応にも追われた。震災対応の遅れが支持率低下を招き、1996年1月に辞任。任期は561日だった。後任には自民党の橋本龍太郎氏が就いた。
「村山談話」侵略認定と謝罪、戦後外交の礎に
1995年8月15日、戦後50年の終戦記念日に「村山談話」を発表。
談話では「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。」と明言。「痛切な反省と心からのお詫びの気持ち」を表明した。
この談話は閣議決定を経て正式に発表され、国内では賛否が分かれたが、のちに小泉純一郎氏(2005年)や安倍晋三氏(2015年)も「深い反省」といった表現を踏襲し、日本外交の基本文書として継承された。
同年、現職首相として初めて中国を訪問し、日中戦争の発端となった盧溝橋事件の現場や中国人民抗日戦争記念館を視察。「歴史を直視し、日中友好、永久の平和を祈る」と揮毫した。この姿勢は中国や韓国などアジア諸国で高く評価された。一方、国内の保守派からは「自虐的」との批判もあった。
また、慰安婦問題への対応として「アジア女性基金」を創設し、元慰安婦への償いを進めたが、最終的な問題解決には至らなかった。 (関連記事: 独占インタビュー》高市早苗氏、日本初の女性首相挑戦か 福島伸享衆議院議員:「有志・改革の会」が鍵となる位置に | 関連記事をもっと読む )
政界引退後は平和憲法を訴え 釣魚島共同開発にも言及
1996年の辞任後は社民党の初代党首を務めたのち、2000年の衆院選をもって政界を引退。以降は地元大分で静かに暮らしつつ、時折、メディアを通じて平和主義の重要性を訴えた。