「柔道女王」連珍羚が引退しコーチに 台日柔道交流の架け橋を目指す

「柔道女王」連珍羚は最近選手を引退し、コーチに転身した。(黄信維撮影)
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「柔道女王」と呼ばれる連珍羚が最近選手を引退し、長年所属していた小松製作所の実業団でコーチに就任した。日本の実業団に加入した初の台湾人選手として、長年柔道で自己挑戦を続け、人生哲学として捉えてきた。選手からコーチへの転身を果たした今、次世代に自身の経験と情熱を伝えることを望んでいる。『風伝媒』が東京で独占インタビューを行い、柔道に全身全霊を捧げる彼女は、台湾柔道の発展に強い期待を抱き、将来より多くの台湾選手が自分以上の成績を収めることを願っていると語った。

連珍羚は台湾柔道界を代表する人物で、9歳から訓練を開始し、柔道への情熱から日本の山梨学院大学に留学し、厳しい訓練の中で成長を遂げた。2014年に日本の「小松女子柔道部」のメンバーとなり、台湾選手の日本での活躍の先駆者となった。連珍羚は台湾代表としてアジア大会やオリンピックに数回出場し、2023年の杭州アジア大会で女子柔道金メダルを獲得、台湾に歴史的な記録をもたらした。現在はコーチに転身し、台日柔道交流の推進に尽力し、台湾柔道の国際舞台での活躍を目指している。

9歳で柔道を始め、27年のキャリア

連珍羚は16年間の日本での経験を振り返り、9歳から柔道を始めて27年の豊富な経歴を積み重ねてきたと語った。19歳で嘉納治五郎杯「東京国際柔道大会」(現在の東京グランドスラム)に出場し、優れた成績を収めたことで日本の山梨学院大学の教練・山部伸敏に見出され、人生の重要な転機となった。「教練から学校の柔道部に誘われた時、私は迷わず承諾しました。教練は驚いて、親に相談しなくていいのかと聞いてきました」と回想する。この誘いが日本での夢追いのきっかけとなった。

2008年、当時20歳の連珍羚は柔道のさらなる高みを目指し、在籍していた国立体育大学を離れ、日本の山梨学院大学で新たな柔道人生をスタートさせることを決意。高校時代の国際ジュニア大会で日本選手の技術とトレーニング方法に感銘を受け、台日柔道の明確な違いを感じ、日本柔道の真髄に深く魅了されていた。この機会に台湾での学業を放棄し、卓越を追求する信念を持って、異国の地で新たな柔道キャリアを始める勇気ある選択をした。

貴重な機会を掴み、待ちきれずに早期渡日

連珍羚は当時の日本行きの決断を振り返り、これは得難い機会で、言語の壁や文化の違いに直面しても挑戦を受け入れる決意だったと語る。12月の大会後、すぐにビザの準備に取り掛かり、教練は翌年7月の入学を勧めたが、期待に胸を膨らませていた彼女は翌年4月に前倒しで渡日し、待ちきれずに柔道トレーニング生活を開始した。日本到着後は語学学校で日本語を学びながら、柔道部の朝練などの日常トレーニングに参加し、徐々に山梨学院大学の練習環境に溶け込み、日本の生活に適応していった。 (関連記事: フェラーリ伝説:レーサー魂で築いた超絶スーパーカー王朝 - 赤い跳ね馬の波乱万丈ストーリー 関連記事をもっと読む

言語の壁は確かに大きな課題だったと連珍羚は語る。半年間語学学校で日本語を学んだ後、正式に山梨学院大学の柔道部に加入。同校での5年間の厳しいトレーニングで着実に基礎を固め、2014年に小松柔道部に加入し、プロの柔道キャリアを正式にスタートさせた。今年、選手を引退してコーチに転身し、柔道人生の新たな章を開いた。連珍羚の日本での経験と卓越した柔道技術は、競技場でもコーチとしても台湾柔道界に輝きを添え、台日スポーツ文化交流の重要な代表者となっている。