2016年の就任演説で、蔡英文氏は「中華民国憲法」と「両岸人民関係条例」に基づき、両岸関係を処理する姿勢を示した。中国大陸側の学界は当初、好意的に受け止めたが、同日午後には国務院台湾事務弁公室(国台弁)が態度を一変させ、「未完成の答案」と表現したことで注目を集めた。
前総統府秘書長の李大維氏は回顧録『和光同塵:一位外交官的省思』の中で、台湾の元政治家が北京側に「蔡英文氏の演説内容は受け入れられない」と伝えたことが、中国の対応を硬化させた一因と指摘している。
この証言は一部で「蔡英文氏への妨害行為」としてブルーキャンプの関与が取り沙汰されたが、取材を進める中で、中国側が「未完成の答案」と表現した背景には、さらに別の要因があったことが明らかになった。
92年コンセンサスの影と中国側の期待 馬英九政権下で台湾は両岸関係の改善に取り組み、2015年には両岸指導者による歴史的な会談が実現した。この時期における最大の政治的ルールとされたのが「92年コンセンサス」だった。
2016年5月20日、政権交代によって蔡英文氏が総統に就任。演説では、「1992年に両岸が相互理解のもと、合意を模索した政治的思想に基づいて協議を進める」と語り、「中華民国憲法」「両岸人民関係条例」などの法律に則り、両岸業務を処理すると表明した。
この発言は、両岸を「一国二地区」とみなすこれらの法律に基づいており、一部では「92年コンセンサス」の枠組みに含まれるという見方もあった。
また、中国の王毅外交部長は同年2月、米ワシントンの戦略国際問題研究センターで「蔡英文氏は自国の憲法に基づいて選出された。憲法の規定に反することはできない。新たな台湾指導者には、自らの憲法を受け入れることを期待する」と発言している。
この言及は、中国政府高官として初めて「中華民国憲法」に言及したものであり、蔡氏の演説は北京側の「善意」に対する回答と受け止められていた。
李大維氏は新著『和光同塵:ある外交官の省察』の中で、9年前の蔡英文氏の就任演説が「未完成の答案」と指摘された背景には、ある元台湾政治家が北京に対し、蔡氏の発言を受け入れないよう電報で伝えていた事実があったと明かしている。(写真/劉偉宏撮影)
蔡英文氏の就任演説を受けて、中国の学者たちは「新たな表現があった」「大陸と歩調を合わせる一歩」として評価を示した。上海国際問題研究院の厳安林副院長も、「民進党の従来の立場よりも前進している」とコメントしていた。
しかし、その数時間後の2016年5月20日午後、国台弁は「蔡英文氏は両岸関係の本質に関する根本的な立場を明確にしておらず、92年コンセンサスも認めていない」として、「未完成の答案」との声明を発表した。
王毅中国外交部長は、かつて国務院台湾事務弁公室(国台弁)主任を務めていた。2016年に王毅氏が公の場で台湾側の「憲法」に言及したことは、大きな話題となった。(AP通信)
李大維氏の新著が公表されると、内容をめぐって議論が巻き起こった。本人はラジオ番組に出演し、「この情報は2023年に台湾を訪れた米国情報機関の退職者の友人から聞いたもので、その視点からは『失われた機会』だった」と語った。また、ブルーキャンプが蔡英文氏の動きを妨げたとする指摘に対しては、「誰がやったかを論じることに意味はない」と強調した。
一方、国民党の元副秘書長である張榮恭氏は「李大維氏は今なお大陸の対台湾政策を理解していないのではないか」と疑問を呈し、李氏の見解を否定した。そのうえで、台湾側の指導者による演説は、大陸の学界の発言と一致することが求められていると指摘している。
国民党の元副秘書長である張栄恭氏は、李大維氏が今もなお中国大陸の対台湾政策を理解していないと嘆いた。(写真/陳明仁撮影)
「未完成の答案」は偶然の言葉だった 李大維氏の新著によれば、「未完成の答案」という表現に、陰謀論的な背景は存在しないという。米国側から李氏に伝えられたような複雑な筋書きではなく、中国が注視していたのは、蔡英文氏が「92共識」を明確に認め、「一つの中国」を象徴する内容を演説に含めているかどうかだった。北京当局は、より明確な説明を求めていたとされる。
ある関係者によると、蔡氏の就任演説が午前中に行われた後、中国の国台弁は内部で意見を集約し、対応方針を検討していた。その最中、『人民日報』の記者が偶然、子どもの数学の宿題を手伝っていた際に「未完成の答案」という言葉を思いつき、これがそのまま採用されたという。「蔡英文氏の発言は完全ではなく、さらに続きが必要である」という趣旨だったとされる。
李大維氏の新著で、2016年の「未完成の答案」の内幕が明かされ、この話題が最近盛り上がりを見せている。(写真/劉偉宏撮影)
海峡両岸経貿文化交流協会の鄧岱賢秘書長は、取材に対し「中国側の真の関心は、蔡英文氏が『92年コンセンサス』や『一つの中国』に触れなかった点にある」と述べた。中華民国憲法の立場に立てば、両岸は同じ中国に属すると解釈されうるため、当初からそれを明確に説明していれば、北京側も容認した可能性があるという。
「未完成の答案」という言葉は、蔡英文氏の演説が十分に踏み込んだ内容ではなかったことを暗示している。であればこそ、さらに答えを続けていくべきだったとの見方もある。鄧氏によれば、中国側はその後も蔡英文氏からの明確な表明を期待しており、李大維氏の著書が国民党に責任を転嫁するような構図に見える一方で、焦点はあくまで蔡氏の演説内容にあったと指摘している。
李大維氏が再び「未完成の答案」に触れた理由とは 李大維氏はかつて国民党政権下で外交官として要職を務め、政権交代後も蔡英文氏からの信頼を得て公職を継続してきた人物である。常に節度を保ち、波風を立てないよう慎重な立場を取ってきたが、今回発表された新著では、米国の情報関係者に由来する政治的に敏感な情報を取り上げており、その意図が注目されている。
また、現在の副総統である蕭美琴氏は、かつて駐米代表として李氏と同様に蔡政権の国家安全チームの一員であった。李氏が今回の著書で2016年の就任演説を再び引用した背景には、蕭氏が外交メディアを通じて「中華民国憲法」や「現状維持」の重要性を改めて強調した姿勢との連動があるとみられている。これらは、蔡英文氏が2度の就任演説で掲げた3つのキーワード──「憲法」「両岸条例」「現状維持」とも一致する。
外部からは、蕭美琴氏と李大維氏の相次ぐ発言が、民進党政権による中国大陸への間接的なメッセージであり、米中台関係の変化を見据えた新たな対話や関係改善の模索ではないかという見方も出ている。
李大維氏と蕭美琴副総統は、蔡英文政権の国家安全保障チームの中核メンバーであり、最近、両氏とも「中華民国憲法」に言及している。(写真/柯承惠撮影)
李大維氏にとって「未完成の答案」は、長年心に残り続けてきたテーマである。一方で、多くの台湾市民にとっては、民進党政権の両岸政策の方向性や核心的な目標が依然として不透明だと感じられている。
蔡英文氏は2016年の就任演説で、「憲法」「両岸条例」「現状維持」の三本柱を掲げたが、再選に向けては「抗中保台(中国に対抗し台湾を守る)」というスローガンを打ち出し、「中華民国と中華人民共和国は互いに隷属しない」という新たな見解も示した。このような変化は、初期の演説内容からの乖離と受け止められる面もある。
民進党政権は発足から9年を迎えたが、「未完成の答案」はなお「未完の事項」のままであり続けている。両岸の平和と安定が本当に政権の最優先目標であるのか、それとも選挙戦略に重きが置かれているのか──その答えは、いまだ明確に示されていない。