世界各地で安全保障上の課題が山積する中、アメリカ国防総省の政策中枢にいるエルブリッジ・コルビー氏が注目を集めている。45歳の国防政策担当副次官である同氏は、米軍の兵器備蓄が逼迫していることを明らかにした機密覚書を作成。この文書が発端となり、アメリカ政府は一時的にウクライナへの一部軍事支援を中断する決定を下すに至った。
さらに、英『フィナンシャル・タイムズ』は、コルビー氏が日本とオーストラリアに対し、「台湾有事」に備えて事前に立場を明確にするよう求めていたと報じた。米紙『ウォール・ストリート・ジャーナル』によれば、こうした動きは、米軍の戦略的重心を中国への対抗にシフトさせようとするコルビー氏の方針と一致している。
優先主義を掲げる対中重視の戦略家
コルビー氏は、元CIA長官ウィリアム・コルビー氏の孫にあたり、父親が日本の投資銀行に勤めていた関係で、少年時代を日本で過ごした。ハーバード大学を卒業後、イェール大学ロースクールに進学し、バイデン政権下で副国家安全保障顧問を務めたジョン・ファイナー氏とは同室だったという。
現在は国防政策担当副次官として、「中国は米国にとって最も重要な戦略的競争相手」と位置づけ、軍事資源を過剰に他地域へ分散させるべきではないと主張している。6月初旬には、ピート・ヘグセス国防長官に宛てた覚書の中で、ウクライナが求める兵器と国防総省の在庫とのギャップを具体的に列挙。明確に軍事支援中断を求めたわけではないが、内容は一部兵器提供の再検討に用いられた。
コルビー氏は「優先主義者」として知られており、アジア以外の地域における米軍の関与を可能な限り抑え、西太平洋へのリソース集中によって中国の台頭に対応すべきだと訴えてきた。このスタンスは、各地での軍事介入を肯定する「伝統的タカ派」とは一線を画している。
トランプ政権の国防戦略の路線対立
その姿勢は、トランプ政権下でも議論を呼んだ。コルビー氏の兵器在庫に関する報告書は、ウクライナ支援をめぐる内部対立を引き起こし、当時のトランプ大統領は一時的に武器提供の停止を承認したものの、その後撤回。ゼレンスキー大統領には「自分は責任を負わない」と伝えたという。『ウォール・ストリート・ジャーナル』は、これは中東(イランやフーシ派)と欧州(ウクライナ)の二正面対応に苦しんだ政権の実態を象徴するエピソードだと分析している。
コルビー氏の支持者たちは、同氏が西太平洋における米軍の戦略的地位の向上に努めていると評価する一方で、実際には米国が中東や欧州で引き続き大きな負担を強いられていることも明らかになってきた。トランプ氏がホワイトハウスに復帰した直後、米軍は中東でフーシ派やイランに対して大規模な軍事行動を展開しながら、同時にウクライナ支援も継続していた。
元政権アドバイザーのダン・コールドウェル氏は、「コルビー氏は限られた軍事資源の中で、いかに米国が最も効果的な防衛体制を整えるかを深く考えている人物だ」と述べている。ただし、コルビー氏はウクライナ支援やアジア・欧州の防衛政策に関する取材依頼には応じていない。
台湾有事を見据えたコルビー氏の対アジア戦略
コルビー氏は12日、ソーシャルメディア上で「たとえ歓迎されなくても率直な議論を続ける」との姿勢を明らかにした。アジア政策においては、日本やオーストラリアなどの同盟国に対し、防衛費の拡充を積極的に促しており、日本に対しては軍事予算をGDP比3.5%にまで引き上げるよう求めている。
さらに、中国が台湾への攻撃に踏み切った場合に備え、日豪に対しては明確な軍事的コミットメントを事前に示すよう強く要請。従来の「戦略的曖昧さ」からの脱却を図る姿勢を示している。この強硬な主張は一部の同盟国関係者を驚かせ、不安も広がったという。
事情に詳しい関係者によれば、コルビー氏は、日本とオーストラリアに対して中国による台湾攻撃時の軍事対応を具体的に示すよう繰り返し求めていた。これに対し、日本政府は対米関係における軍事費や通商政策の緊張から、2025年7月に予定されていた高官会談を延期。一方でオーストラリアは、2021年に結ばれたAUKUS協定の見直しに対して、コルビー氏が再検討の姿勢を見せていることに懸念を示している。
中立的な中国対抗論とトランプ政権内の対立
コルビー氏は2018年の国防戦略で主要な起草者の一人を務めた。この文書では初めて、中国とロシアが米国の主要な戦略的脅威として明記され、長年続いた対テロ戦略から大国間競争へのシフトを打ち出している。2021年には著書『拒止戦略』を発表し、台湾が第一列島線における戦略的要衝であると主張。また、中国の牽制においてロシアが潜在的な協力国となる可能性にも言及している。
一方で、ウクライナのNATO加盟には否定的な立場を取り、その防衛にかかるコストが高すぎること、戦略的価値が限定的であることを理由として挙げている。
近年、米国の歴代大統領は中国を国家安全保障の中心課題と位置づけてきたが、その方針を現実の政策に反映させることは容易ではない。特に、米国防総省が依然として中東およびヨーロッパへの長期的関与を迫られていることが障害となっている。
2022年、ロシアによるウクライナ全面侵攻後、米国は中露という二大地政学的ライバルを同時に相手にせざるを得ない状況となり、コルビー氏の「アジア優先戦略」が試される展開となった。同氏はアジア以外での米軍駐留の要求に慎重な立場をとっており、共和党内でもその主張には賛否が分かれている。
ワシントンのシンクタンク「大西洋評議会」に所属するマシュー・クローニグ氏は、コルビー氏が長年「イラン攻撃に反対し、ウクライナ支援にも慎重な立場を取ってきた」と説明する。その理由は「米国が中国との衝突に備えるには、軍事資源の節約が不可欠」という戦略的判断に基づいているという。
しかし、トランプ氏は各地への軍事介入を継続する意向を示しており、その点ではコルビー氏と食い違いが見られる。2023年12月にトランプ氏がコルビー氏を国防副次官に指名した際も、共和党内の安全保障政策をめぐる路線対立が顕在化した。ウクライナ支援に否定的なJ・D・ヴァンス氏はコルビー氏を強く支持したが、一方で上院共和党のリーダーであるミッチ・マコーネル氏は「地政学的な自滅を招く」として反対票を投じた。
「台湾優先」を掲げる独自の戦略思想
コルビー氏は元CIA長官ウィリアム・コルビー氏の孫で、ワシントン政界にも広い人脈を持ち、「ブリッジ(Bridge)」の愛称で呼ばれている。幼少期を日本で過ごした経験が、アジア太平洋地域への理解を深める要因になったとされている。
共和党内では2003年のイラク戦争に反対した数少ない人物のひとりであり、長期的な占領は「歴史的な誤り」であり、米国の資源を大きく浪費したと批判してきた。
2012年にはイラン核施設への軍事攻撃に反対する論考を発表し、そのような行動がむしろテヘランをさらなる核開発へと駆り立てると警告した。トランプ政権一期目には国防部副補佐官を務め、対テロ重視から中国・ロシアとの大国間競争への戦略転換を主導する2018年の国防戦略の策定に深く関わった。
コルビー氏は、台湾の防衛が地域の戦略的均衡を保つために極めて重要であるとの立場を取っており、これはジム・マティス元国防長官など、上層部の一部から批判を受けた。退役海兵隊大佐のフランク・ホフマン氏は、「戦略立案過程における成果は高く評価する」としながらも、「台湾に過度に偏重し、広範な戦略要求を十分に考慮していない」と述べている。
元国務省高官のウェス・ミッチェル氏とともに設立した政策組織「マラソン・イニシアティブ」では、コルビー氏の戦略的優先順位に沿った政策提案を行っており、ミッチェル氏も「米国にはもはや“三正面作戦”を遂行するだけの資源は残されていない」として、コルビー氏の主張の正当性を一定程度認めている。ただし、具体的な対応策の面では意見が分かれることもあると述べている。