青森から富士山麓へ、さらに北海道・層雲峡から栃木県へ――4人の台湾人が日本の非都市部に根を下ろし、ガイドや手技、起業、着物体験を通じて、台日交流の新たな可能性を切り拓いている。
青森県の雪深い山間の静かな駅や、毎年恒例の「ねぶた祭」、栃木県の田園風景、北海道層雲峡の壮大な渓谷、そして富士山麓の和風旅宿。その各地に暮らす台湾からの移住者たちは、観光民宿や着物レンタルを営み、地域の歴史案内や文化イベントを企画し、さらには「グアシャ(刮痧)」を通じて台日交流を深めるなど、日本の地方創生を静かに支える存在となっている。言語や制度の壁は大きいものの、彼らは外来者ならではの熱意で、衰退しつつある農村に新たな想像力を吹き込んでいるのである。

家族が反対しても東京から移転を決意 青森初の台湾人「ミスねぶた」ケイシー
青森県は本州最北端に位置し、ねぶた祭や奥入瀬渓流といった豊かな観光資源を有する一方で、交通面は依然として大きな課題である。東京から新幹線で約3時間半から4時間を要し、運賃も安くはない。県内の鉄道路線は限られ、多くの観光地は本数の少ないバスに頼らざるを得ず、冬季には大雪で運休することも少なくない。そうした不便さがある一方で、青森と台湾の交流は着実に進んできた。新竹県と青森市は2014年に友好都市を締結し、2023年には台湾プロバスケットボール「新竹街口攻城獅」とB.LEAGUEの青森ワッツが姉妹チームとなった。さらに、頼清徳総統も台南市長だった2017年、青森県や弘前市と相次いで友好協定を結んでいる。
冬の青森は大雪に覆われ厳しい気候に晒されるが、白神山地の世界遺産や津軽三味線、そして毎年夏に多くの観光客を魅了する「ねぶた祭」など、豊かな自然と深い民俗文化に恵まれている。台湾出身の呉詠心さん(芸名・ケイシー)にとって、この寒冷な地は人生で最も熱い経験の舞台となった。大学時代に国際留学制度「グローバル30」で来日し、東京の大学に学んだ後、都内で就職。しかしコロナ禍の中で都市生活への疑問が芽生えたという。
ある旅の途中で偶然訪れた青森に強く惹かれた彼女は、やがて青森市役所が国際交流員を募集していることを知り、家族の反対を押し切って履歴書を提出。東京を離れ、地方での暮らしを決断した。国際交流員としての業務は、学校や市民センターで台湾文化の授業を行い、展示企画を手掛け、SNSで地域の観光情報を発信するなど多岐にわたる。既存の役割にとどまらず、台湾をテーマにしたイベントを自ら提案し、現地住民に台湾文化の多様性を広める取り組みも続けている。 (関連記事: <独占インタビュー> 台湾インディーズバンド浅堤ボーカル・依玲さん、初のエッセイ集を刊行 | 関連記事をもっと読む )

台湾と日本・東北をつなぐ 地元の日常が外国人には宝の景色に
2022年、ケイシーさんは伝統の枠を破り、「ねぶた祭」史上初の外国人女性「ミスねぶた」に選ばれた。祭りのパレードに参加するだけでなく観光大使としての役割も担い、青森県知事とともに台湾を訪れてプロモーション活動を行い、現地メディアから大きな注目を浴びた。現在は青森市観光協会の職員として、台湾市場との観光交流推進を専門に担当している。自ら車を運転して県内40市町村を巡り、外国人の視点で地域の魅力を掘り起こし、中国語を活用して台湾のSNSとつなげることで、多くの台湾人に青森への関心を喚起。実際に彼女の紹介をきっかけに訪日旅行を決める人も少なくない。
「地元の人にとって当たり前の風景も、外国人の目には宝物のように映る。それを自分なりの方法で伝えられることに大きな価値を感じています」と語る。日常生活にもすっかり溶け込み、無意識のうちに津軽弁の語尾「〜だべさ」を使ってしまうこともあるといい、「初めて気づいたときは驚きましたが、本当にここに根付いたのだと実感しました」と笑顔を見せる。
青森に移り住んで5年。ケイシーさんは今後、さらに地域づくりに深く関わり、将来的には起業も視野に入れて青森の風土や文化を台湾、そして世界へ発信していきたいとしている。

交通不便な首都圏近郊・栃木 ティンティンがグアシャで日本人に台湾の健康観を伝える
栃木県は東京近郊に位置するものの、交通の便は決して良いとは言えない。東京から新幹線で宇都宮までは約50分で着くが、日光、鬼怒川、那須高原など主要観光地へ向かうにはさらに地方鉄道やバスへの乗り換えが必要で、全体で2時間以上かかることも多い。冬季は大雪による道路封鎖や運休も珍しくなく、自家用車を持たない旅行者にとっては不便さが際立つ。
それでも栃木と台湾の縁は浅くない。高雄市は2017年に栃木県と経済・教育に関する友好協力覚書を締結し、台南市も2009年から日光市と友誼都市の関係を結んでいる。さらにイチゴの産地として知られる真岡市は、交通の便に課題を抱えながらも2023年に雲林県斗六市と友好都市協定を結び、2024年5月には1周年記念式典が開かれるなど、台湾との新たな交流の窓口となっている。
関東内陸に位置する栃木県は、温泉や自然景観で知られる静かな土地である。日光東照宮、鬼怒川温泉、那須高原といった観光名所に加え、豊かな農産物と地域の暮らしが息づいている。台中出身のティンティンさんにとって、この東京から程近いながらも地方の風情を残す土地こそ、自らの夢を実現し、台湾と日本を結ぶ舞台となった。
17年前、ティンティンさんはワーキングホリデービザを取得して来日。当初は短期の日本語研修と資格取得後の帰国を予定していたが、偶然の出会いで現在の夫と知り合い、最終的に夫の故郷である栃木に根を下ろすこととなった。事務職や観光ガイド、通訳といった経験を積んだ後、彼女は自らの興味と文化的背景を活かす道を選び、西川田駅近くに美容サロンを開業。「台湾式」を打ち出したサービスが特色である。
サロンではフェイシャルケアやボディトリートメントに加え、台湾伝統の調整技術である「グアシャ(刮痧)」や「ボディブラッシング」を取り入れている。ティンティンさんは「これは単なる技術ではなく文化そのもの」と強調する。当初、日本の利用客は痛みや未知の体験に不安を抱いたが、実際に施術を受けると深いリラクゼーションを体感し、その価値に気づく人が少なくなかった。 (関連記事: <独占インタビュー> 台湾インディーズバンド浅堤ボーカル・依玲さん、初のエッセイ集を刊行 | 関連記事をもっと読む )

自分の道を切り開く 若者に地方での生活を促す
「もっと多くの日本人に台湾の健康観を理解してほしい。そして、こうした癒やしの方法を地域社会に伝えていきたい。」ティンティンさんはそう語る。看板を掲げない住宅型の小さなサロンで、美容予約サイト「Hot Pepper Beauty」、顧客からの紹介、地域の市やフィットネスジムとの連携を通じて、少しずつ評判を築いてきた。さらに地域活動にも積極的に参加し、友人とともにYouTubeチャンネル「混日本TV」を運営。栃木の観光地や暮らしの様子を台湾の視聴者に紹介してきた。現在は更新を休止しているが、今後も日台を結ぶ「民間の小さな架け橋」として役割を担いたいと考えている。
「日本の日常生活の中では、台湾のように生活に根ざした養生法を見つけるのは難しい」とティンティンさんは言う。彼女は両手とひとつの理念を通じて、日本の地方に台湾の健康知恵を根づかせようとしている。それは単なる表層的な交流ではなく、身体に記憶される体験として文化を伝える試みでもある。栃木の静けさやゆったりとした生活、人々の親しみやすさは文化を共有する土壌になっているといい、「都市のような混雑はなく、むしろ話を聞いてくれる余白があり、異文化を受け入れる余地がある」と語る。
さらにティンティンさんは、台湾の若者に向けて地方暮らしの可能性を考えてほしいと呼びかける。「東京にとどまる必要はない。栃木のような場所でも、自分らしい道を切り拓くことができるのです。」

断崖の峡谷ひろがる北海道・層雲峡 台湾人トビーが第二の故郷として暮らす
北海道・大雪山国立公園の奥深くに位置する層雲峡は、断崖絶壁の峡谷や紅葉、温泉で知られる観光地である。しかし交通の便は決して良いとは言えず、秘境として語られることも多い。鉄道は直通しておらず、最寄りのJR上川駅から30キロ離れており、バスか自家用車に頼らざるを得ない。札幌からは特急で旭川に出て上川まで乗り継ぎ、さらにバスで向かう必要があり、所要時間は少なくとも3時間。旭川からでも一日に数本しかないバスを逃せば長時間待たされる。東京から訪れる場合は旭川空港まで飛行機で移動し、そこからバスや自家用車を利用するのが最短だが、冬季は道路の凍結による不確実性も抱える。
北海道中央部の山岳地帯に広がる層雲峡は、峡谷と温泉、四季折々の自然美で知られる地だ。台湾出身のトビーさんにとって、この厳寒ながら生命力あふれる谷は、仕事場であると同時に「第二の故郷」となった。現在、層雲峡の上川町自然センター(ビジターセンター)に勤務しながら、独立した自然ガイドとしても活動。登山道や源流域に旅人を案内し、四季の変化や生態系を紹介している。「ここに来たのは偶然でした」と振り返る。かつてはさらに山奥で働いていたが、友人の紹介で層雲峡へ移り住み、そのまま定住することになったという。
「来てみて初めて、層雲峡が台湾でもよく知られていることに驚きました」とトビーさんは笑う。自然中心では海外観光客に天候や登山道の情報を提供し、勤務後は自らガイドツアーを企画。登山や動植物観察、アウトドア体験を通じて、観光客に自然の魅力を伝える。「ここでは冬になると雪が膝まで積もり、まず車を掘り出さなければ出勤できません。でもだからこそ『自然』が単なる背景ではなく、生活そのものだと実感できるのです」と語る。 (関連記事: <独占インタビュー> 台湾インディーズバンド浅堤ボーカル・依玲さん、初のエッセイ集を刊行 | 関連記事をもっと読む )

母熊との至近距離での遭遇 トビーさんが生涯忘れられない体験と台湾の架け橋としての歩み
外国人として、就労ビザや職務選択には一定の制約があるものの、トビーさんは挑戦を前向きに受け止めてきた。かつてはヒグマの出没地域で巡回や登山道の管理に携わり、勤務中に母グマと至近距離で遭遇したこともある。「あの瞬間は本当に命を落とすと思いました。子グマを守ろうと母グマがこちらに突進してきたのです。あの体験は一生忘れられません」と語る。
地元住民との交流を重ねるなかで、自身も意識しないうちに台湾文化を伝える「民間の架け橋」となっていった。特別に文化を広めようとしたわけではないが、彼を知ることで台湾に興味を持つ住民が少なくないという。旭川で短期間ながら中国語を教えた経験もあり、「皆さんは新しい文化にとても積極的で、こちらが共有すれば心を開いて受け入れてくれる」と話す。
層雲峡の暮らしは、トビーさんにとって心地よい「帰属感」を与えている。郵便局やスーパーでは顔見知りばかりで、どこに行っても声をかけられる。ガイド活動を通じて地域の組織や学校、宿泊業者とのつながりも築き上げ、「旅人ではなく、地域の一員として関わる実感がある」と語る。今後は自然教育やアウトドア体験を通じて、環境への敬意と行動の可能性を広めていきたいと考えている。
「ただ景色を見てもらうのではなく、この自然に自分が何をできるのか考えてほしい。」年齢や国籍を問わず、その思いを多くの人に伝えたいという。彼を魅了してやまないのは、層雲峡の四季が織りなす「色彩のリズム」だ。春は雪解けに命が芽吹き、夏は百花が咲き乱れ、秋は峡谷が鮮やかに染まり、冬は真白な世界に覆われる。「大自然が自ら描く絵は、日ごとに表情が変わる」と語る。層雲峡という自然と共にある町で、トビーさんは仕事と生活の意味を見出し、台日交流の架け橋として歩みを続けている。

アクセス困難な富士山駅で台湾出身の嫁が和服を通じ日本の美意識を伝える
山梨県富士吉田市にある富士山駅は、吉田口登山道の玄関口に位置するものの、観光客に広く知られる河口湖駅に比べるとアクセスは不便だ。東京からは特急「富士回遊」など直通列車が運行しているが本数は限られ、多くの旅客は大月駅で富士急行線に乗り換える必要がある。さらに登山や五合目への移動には季節限定のシャトルバスに頼らざるを得ず、便数が少なく天候に左右されやすい。富士山により近い立地でありながら、「目の前にありながら容易にはたどり着けない」距離感が残る駅である。
その富士山駅から徒歩1分、静かな路地に佇む「KIMONO MEGU」は、和服レンタルと宿泊を組み合わせた特色ある空間だ。運営するのは台湾出身のMEGUさん。彼女は繊細な感性と文化への情熱を注ぎ、訪れる旅人に「本物の和服体験」を提供している。単なる衣装の貸し出しではなく、日本の伝統美学への深い関与を目指す。東京で30年以上暮らし、秋葉原で民宿を営んでいた経験から、多くの旅行者が富士山に憧れを抱いていることを感じ取り、夫の家族が受け継いできた和服資源を生かして富士吉田に拠点を移し、「KIMONO MEGU」を立ち上げた。 (関連記事: <独占インタビュー> 台湾インディーズバンド浅堤ボーカル・依玲さん、初のエッセイ集を刊行 | 関連記事をもっと読む )
「これらの古い着物は倉庫に眠ったままでしたが、文化的な重みと美しさを宿しています。再び袖を通し、日常に戻すべきだと思ったのです」とMEGUさんは語る。店の特色は品質への徹底したこだわりにある。用意されるのは観光用の簡易な衣装ではなく、実際に日本人が着用してきた正統な和服。生地の質感から小物の選択に至るまで、MEGUさん自らが一つひとつ組み合わせ、自然で優雅なスタイルを追求している。一人旅の女性から四世代の家族連れまで客層は幅広く、「流れ作業のような体験ではなく、一人ひとりが着付けの過程を楽しみ、身体や姿勢の変化を実感してほしい」と話す。

和服はただのインスタ映えの道具ではない MEGUさんが日台文化をつなぐ
MEGUさんの心に強く残っている出来事の一つは、和服体験の場でイチゴの花束を手に恋人へプロポーズした男性の姿である。また、20人を超える台湾の大家族が訪れたこともあり、「和服には不思議な力があり、日常を特別な瞬間へと変えてくれる」と語る。顧客の要望に応える形で、店ではメイクやヘアセット、プロの写真撮影などのサービスも導入。特に結婚式を控えたカップルを対象とする「和婚フォト」は人気が高まりつつある。台湾や香港の撮影チームと連携し、白無垢や色打掛などの正装を用い、地元の神社で儀式風の撮影を行うことで、異国の旅行者にも日本の婚礼文化の厳かな雰囲気を体感してもらえるという。
「和服は単なる衣服ではなく、一つの生活態度です。袖を通すと歩みは自然にゆるやかになり、声は落ち着き、まるで別人になったような感覚を覚えるのです」とMEGUさんは話す。こうした「非日常」の体験を通じて、旅行者が自分自身を見つめ直し、日本文化の奥深さに触れる機会を提供したいと考えている。
「KIMONO MEGU」では振袖、訪問着、小紋、浴衣、男性用の袴、子ども用の和服、さらには白無垢まで幅広い衣装を揃えている。台湾出身のMEGUさんは、自らの方法で台日文化を結び付け、和服を単なる写真映えの小道具ではなく、「姿勢」「心意」「記憶」を刻む体験として届けている。

台湾観光で存在感増す日本人旅行者 高いリピーター率と経済貢献度
2025年6月2日、「日台観光サミット in 鳥取」が、当時の日本の首相・石破茂氏の出身地である鳥取県で開催され、双方の観光交流が新たな段階に入ったことを象徴する場となった。フォーラムには台湾交通部観光署東京事務所の王紹旬主任が出席し、台湾観光の現況と今後の戦略について説明した。
王氏によれば、2024年に台湾を訪れた外国人旅行者は786万人に達し、そのうち日本人旅行者が全体の約17%を占め最大の市場となった。日本人の平均滞在日数は4.8泊と全体平均を上回り、1日当たりの消費額も198米ドルに達しており、経済的貢献度が高く、旅行の深度やリピーターとしての忠誠度も際立っているという。
観光署は2024年からブランド3.0「TAIWAN – Waves of Wonder」を展開し、「共有・発見・参加・享受」の4つを核とし、自然、文化、地域の特色を横断的に発信している。2025年には人気声優・津田健次郎氏をナレーションに起用した新たなプロモーション映像を公開予定で、阿里山や迪化街などのランドマークを紹介。さらに旅行博やインフルエンサーとの協業、SNSを通じたマーケティングで日本市場への浸透を図る。 (関連記事: <独占インタビュー> 台湾インディーズバンド浅堤ボーカル・依玲さん、初のエッセイ集を刊行 | 関連記事をもっと読む )
特に若年層を中心に日本で海外旅行需要が高まっていることを踏まえ、観光署は航空会社との連携を強化。高雄や台中への直行便など多様な誘因を打ち出し、日本市場での競争力を高めていく方針である。

日本の地方自治体 職員に台湾人を積極登用する動き広がる
台南市議会の元議員で、財団法人台南市台日文化友好交流基金会の李退之理事長は取材に対し、台日間の制度の違いについて言及した。李氏によれば、日本の地方自治体は人材登用に柔軟性があり、過去には日本の地方公務員が台南市政府に派遣され、研修や交流を行ったこともあるという。また、日本の各都道府県には「国際交流員」と呼ばれる職が設けられており、多くの台湾人が応募している。従来、このポストは中国出身者が多かったが、李氏は自身の交流の経験から「必ずしも友好的とは限らなかった」と振り返った。
しかし近年は状況が変化しつつある。李氏によると、同基金会の関係者が九州の地方自治体で交流員として採用され、現地で働いている事例があるほか、TSMC(台湾積体電路製造)が進出した熊本県では、台湾人の相談窓口を台湾人自身が担っている。こうした動きは台日交流の実務的な支えとなっており、日本各地の自治体も相次いで同様の職を設置し始めている。
給与水準は必ずしも高くはなく、多くが地方勤務で為替の影響も受けやすい。それでも、生活体験や交流促進への情熱を持つ台湾人にとって魅力的な選択肢となっており、李氏は「今後もさまざまな方法で台湾の若者に挑戦を促したい」と述べた。

「外国人問題」を巡る日本の議論 郭国文氏、台湾人は脅威ではないと強調
亜東国会議員友好協会会長で民進党立法委員の郭国文氏は、現在日本で働く台湾人の数について「10年前と比べると10倍以上に増えている」と指摘した。郭氏によれば、台湾人は日本文化への理解が深く、日本語を話せる人も少なくない。加えて日本への親近感が強く、観光のみならず移住や地域活性化に貢献する人々も多いという。日本全国ほぼすべての都道府県に台湾人の足跡が見られるほどで、世界的に見てもこれほど日本を好み、定住まで進む国民は珍しいと強調した。
また郭氏は、台湾と日本の友好関係を背景に「台湾人が日本社会に脅威を与える存在と見なされることはない」と語った。2025年7月の参議院選挙では「外国人問題」が争点の一つとなり、「日本優先」「日本人優先」といったスローガンを掲げる政党も現れたが、その背後にあるのは主に「中国人問題」だと分析する。在日台湾人の数は決して多くなく、日本社会に対する脅威ではなくむしろ前向きな存在であるとし、多くの地方自治体の知事が台湾との直行便開設を求めているのはその証左だと述べた。「台湾は日本に繁栄と利益をもたらすパートナーであり、日本の対台湾感情は相対的に友好的だ」と強調した。 (関連記事: <独占インタビュー> 台湾インディーズバンド浅堤ボーカル・依玲さん、初のエッセイ集を刊行 | 関連記事をもっと読む )

地方で活躍する台湾人が文化の推進役に 民間交流が日台関係の原動力へ
日本の地方や離島では、台湾出身者の存在が近年ますます目立つようになっている。子育てをしながら定住する人、民宿を営む人、グアシャの施術店を開く人、あるいはガイドとして活動する人など、その形は多様だ。彼らは地域社会に溶け込むだけでなく、文化の紹介者としての役割も担い、小さな交流を通じて日本人に台湾を改めて認識させる存在となっている。東京大学東洋文化研究所の特任研究員・林泉忠氏は、こうした民間交流は単なる地域活性化にとどまらず、台日関係を推進する重要な原動力であり、台湾の国際的立場にとって戦略的な意義を持つと指摘する。
林氏によれば、台湾の戦後文化は長期にわたり変容と自己認識の模索を経験してきた。威権体制下での「新中国文化」の移植から、1980年代以降の本土文化の台頭、さらに解厳後の民主化の波を経て、日本文化の受容や交流の形も変化していった。自身の若い頃を振り返り、「1990年代以前は《放送テレビ法》や行政命令の規制により、日本のテレビドラマは台湾で放送が禁止されていました。大学時代に尾崎豊のレコードを買いましたが、まだ海賊版でした。当時の日本文化は半ば地下的な存在だったのです」と述懐する。
その転機となったのが1993年。行政院新聞局が正式に日本のドラマ放送を解禁したことで、ハローキティや尾崎豊をはじめとする「哈日」ブームが一気に広がり、台日間の文化交流が本格的に活発化したのである。
しかし、日台の民間関係が本格的に「社会の隅々にまで浸透した」契機は、2011年の東日本大震災であった。林泉忠氏は、当時台湾社会が圧倒的な善意で日本を支援し、その援助額は世界各国の中で最大となったことを指摘する。これにより日本社会全体が深い感銘を受けたという。
「その感動は政府やメディアにとどまらず、村落や小さな商店にまで広がり、日常生活の記憶として根付いていきました。日本各地を訪れる台湾人旅行者が、『台湾から来ました』と伝えるだけで、店主からコーヒーをご馳走されたり、ラーメンを振る舞われたりすることが少なくありません。こうした温かな交流は数え切れないほどあります」と林氏は語る。

日台文化交流が民間で深化 庶民が草の根の外交大使に
いまや、五島列島や佐渡島、小豆島、淡路島、さらには北海道の層雲峡といった離島や地方に暮らす台湾人が増えている。彼らは単なる移住者にとどまらず、多彩な役割を担っている。カフェを経営しながら台湾文化を紹介する人、観光推進役として各地の旅行博で故郷の島をPRする人、さらにはグアシャ(刮痧)の技術を自治体の観光イベントに組み込み、日本人に台湾の伝統療法を体験させる人もいる。東京大学東洋文化研究所の林泉忠特任研究員は、これらの活動を「日台文化交流の民間レベルでの深化」と位置づけ、とりわけ外交的に制約のある台湾にとって「こうした人々こそ実質的な文化外交大使であり、日常生活の場を通じて台湾の物語と価値を発信している」と語る。
林氏はさらに、「過去30年で台日間の文化的な交流は極めて成熟した段階に達している。民間の信頼、文化的認知や感情の基盤は、単なる外交関係を超えるものになっている」と強調する。その背景には、謝長廷駐日代表が在任した8年間に台日地方政府の友好都市締結が倍増した事実がある。都市だけでなく村や町、さらには地方行政単位まで広がり、儀式的な署名にとどまらず、実質的に地域同士の距離を縮めてきた。 (関連記事: <独占インタビュー> 台湾インディーズバンド浅堤ボーカル・依玲さん、初のエッセイ集を刊行 | 関連記事をもっと読む )
また、日本の高校生の卒業旅行先として台湾が第1位に選ばれている点についても林氏は注目する。「正式な国交がないにもかかわらず、台湾が強い信頼を得ていることの証左であり、台湾は日本社会において地政学を超えた文化的・安全保障的な安心感を築いている」と指摘。長年にわたる交流の積み重ねがもたらした成果であり、台湾の国際的な存在感や安全保障にも確かなプラス効果をもたらしていると結んだ。

日本各地で根を張る台湾人 深い交流が文化の絆を織り成す
青森、層雲峡、富士山駅、そして栃木――これらの地域には共通点がある。雄大な景観と豊かな文化を誇りながらも、決して容易には辿り着けない場所であることだ。青森は新幹線や空港を備えているものの、東京からは約4時間近い移動と煩雑な乗り換えが必要となる。層雲峡は大雪山の峡谷に位置し鉄道の便がなく、限られたバスや自家用車で雪道を抜けるしかない。富士山駅は「登山口」とされながら、観光客に馴染みのある河口湖駅のような利便性はなく、乗り換えを繰り返したうえで季節運行のバスに頼らねば五合目に到達できない。東京から近い栃木もまた、日光や鬼怒川などの名所に行くには新幹線と地方鉄道を乗り継ぐ手間がかかる。
これらの地域は、日本の東北、北海道、山梨、関東とそれぞれ離れた場所にある。制度的な枠組みで台湾と結び付いているわけではないが、その地に根を下ろす台湾人の姿がある。彼らはガイドや文化イベント、産業の発信や日々の暮らしを通じ、制度を超えた「民間の橋」を築いてきた。青森、層雲峡、富士山麓、栃木――かつて遠く隔たっていた場所が、台湾人の営みによって距離を縮め、交流の網目はかつてなく濃やかになり、両地の間に思いがけない文化の絆が織り込まれているのである。
編集:柄澤南 (関連記事: <独占インタビュー> 台湾インディーズバンド浅堤ボーカル・依玲さん、初のエッセイ集を刊行 | 関連記事をもっと読む )
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