台湾人にとって日本は最も人気のある旅行先だ。東京、大阪、京都といった定番観光地は言うまでもないが、実は「日本の果て」ともいえる離島や僻地にも、台湾からやって来て人生を根付かせる人々がいる。彼らは都市を離れ、海風に吹かれる島で暮らしながら台湾の生活文化を持ち込み、交流を通じて地域に新しい風景を刻み込んでいる。その営みは、公式な日台交流を超えて静かに根を張り、確かな絆を築きつつある。
九州の長崎・五島列島の漁村、新潟・佐渡島の金山の古道、香川・小豆島のオリーブ畑、兵庫・淡路島の農泊集落、さらには北海道・知床半島の荒々しい海岸線まで──近年、こうした辺境に台湾人が移り住み、地域に深く関わる例が増えている。彼らは自らの人生を地域の未来と重ね合わせ、国際的な架け橋となりつつある。
台湾人が日本の離島に根を下ろし、人生の軌跡を島の未来と結びつけ、地域と世界をつなぐ存在となっている。(写真/Lois提供)
交通難が試す五島列島 台湾出身のLoisが担う国際化の旗手 長崎県西部に位置する五島列島は、ここ数年、台湾からの旅行者にも注目され始めた静かな秘境だ。しかしその美しさは、極端な交通不便によって「閉ざされた楽園」とも言える。福岡からは小型機で福江島に飛ぶことができるが便数は限られ、運賃も高い。島からさらに他の島へ渡るには船を乗り継がねばならず、天候で欠航も多い。長崎市からの高速船やフェリーも同様に海況に左右され、予定通りの到着は難しい。島内には鉄道がなく、バスは本数が少ないため、多くの観光客はレンタカー頼みだ。場所すら正確に知らない日本人も少なくない。
そんな五島で、台湾出身の女性Loisは地域観光と国際交流の要として存在感を放っている。日本人の夫と共に福江島で立ち上げた「五島時光」は、元産婦人科医院を改装した三階建ての複合施設だ。民宿、コワーキングスペース、中国語教室、地域ガイドを組み合わせ、五島を外に発信する拠点となっている。
Loisは新北市新店の出身。夫の親族を訪ね娘とともに五島を訪れた際、家族が子どもを大切に包み込む姿に触れ、「ここで暮らしたい」と思うようになったという。
移住当初は言葉の壁や地域の慣習に悩み、孤独を感じたこともあったが、空き家を改装し「五島時光」を形にした。最初は家族や友人のための宿泊場所にすぎなかったが、やがて若い起業家が集う場へと広がっていった。Loisは「この家は迷宮のように大きいからこそ、多様な人が集まり、つながりが生まれる」と語る。台湾からの旅行者を受け入れることも多く、親子連れの花見や旧友の再訪、バックパッカーとの交流を通じて、文化が交差する温かさを日々感じている。
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Lois氏が五島列島で立ち上げた「五島時光」は、若手起業家が集うシェアスペースとなっている。(写真/Lois提供)
台湾から来た「ホタル」 五島列島の情報弱者を支援 Loisは宿泊の提供にとどまらず、観光ガイド、レンタカー、旅行パッケージなど幅広いサービスを展開している。交通の便が乏しい五島列島では、自ら車やバイクを購入し、個人旅行者が自由に動ける環境を整えてきた。さらにITF台北国際旅行博にも五島代表として参加し、自治体や企業の台湾向けプロモーションを支援している。彼女は「私は主役ではなく橋でありたい。ホタルのように、五島の魅力を多くの人に照らし出したい」と語る。
夫の橋本氏は、五島で唯一のパソコン修理店を営む一方、フリーペーパー『Free FULLY』を編集長として発行。夫妻は情報発信と地域再生を二人三脚で担っている。
Lois自身もSNS発信から活動を始め、旅行者と五島を結ぶ存在へと成長した。「五島には魅力がないのではなく、知ってもらう機会が欠けている」と考える彼女は、現在隣の奈留島に空き家を購入し、新たな拠点づくりを準備中だ。「観光は経済だけではなく文化交流の出発点。台湾人にとって情報が少なく見過ごされがちな五島だからこそ、私はその窓口になりたい」と強調している。
Lois氏は観光サービスにも関わり、五島列島を世界に発信している。(写真/Lois提供)
台湾人が築く淡路島の「帰郷」 台南の香りが漂う島 兵庫県の淡路島は大阪や神戸から橋で結ばれているが、鉄道はなく、移動は車か高速バスに限られる。便数が少なく、週末は渋滞も頻発するため、観光客にとっては決してアクセスが容易ではない。そうした課題に対し、日本企業ホウセイナグループは2008年から島に拠点を構え、農業支援や廃校の利活用、観光施設開発を通じた「地方創生」を進めてきた。さらに台湾の若者を対象に「淡路島地方創生インターンシップ」やワーキングホリデーの仕組みを整え、交流の場を広げている。
その流れの中で注目されるのが、台湾出身の楊百泓さんと日本人の妻・中尾美喜子さんが営む「台南家 TAINAN HOUSE」だ。夫婦は4年前に淡路島へ移住し、台南の味とライフスタイルを日本で再現する拠点を築いた。楊さんは「山と海に囲まれ、汚染のない環境は子育てに最適。子どもには澄んだ空気と自然の中で育ってほしいし、台南文化をこの地に根付かせたい」と話す。
「台南家」という名前には、「故郷への帰郷」と「台南精神の継承」という意味が込められている。夫妻は15年にわたり台南と日本を行き来し、子どもの独立を機に共同で事業を始めた。中尾さんは台南で義理の家族と暮らし、地元料理を学んだ経験を持つ。その技が日本でも生かされ、魯肉飯、割包(角煮包)、葱油餅など本格的な軽食を提供。台湾人や在日華人だけでなく、日本に長年住む人々からも「日本で初めて本当の台湾の味に出会えた」との声が寄せられている。
楊百泓氏と中尾美喜子氏が淡路島で営む「台南家」。台南の軽食が多くの客を惹きつけている。(写真/台南家提供)
土地に根を下ろし、食の魂を守る 日台文化の静かな架け橋 「台南家」は単なる飲食店ではなく、滞在や交流を楽しめる複合空間だ。羊や猫がのんびり暮らし、庭には桜や紅葉、果樹が植えられ、訪れる人が四季折々の自然を感じながらゆっくりと過ごせる場を目指している。ここは淡路島にありながら台南の香りを運び、台湾を知る日本の旅行者にとっては「台南」という言葉が自然と足を運ばせるきっかけになる。また日本人にとっては、台北とは違う、土地に根差した台湾の暮らし方を体感できる場所でもある。それは「食を通じて土地とつながる」という執念にも似た思いに支えられている。
淡路島は本州や四国に隣接しながらも、素朴な暮らしと四季のリズムが息づいている。楊百泓さんは広大な敷地を「桃花島」のように人々が心からくつろげる空間にしたいと考えている。「春には桜、秋にはイチョウを眺め、ここで癒やされて笑顔で帰ってもらいたい」と彼は話す。
台湾や日本各地から訪れる友人に対しても、彼はこう勧める。「神戸から車で35分で来られますし、台湾からの航空便もますます便利になっています。淡路島の台湾人たちが、食と土地を通じて物語を語り、台南の心と味を感じてもらえる場所にしたいのです」。
淡路島の「台南家」には羊や猫が飼われ、楊百泓氏は四季を楽しめる「桃花島」を築きたいと考えている。(写真/台南家提供)
佐渡島に根付く台湾の味 小さな食堂「慶幸屋」 日本海に浮かぶ最大の離島・新潟県佐渡島は、交通の便の悪さから「遠い島」として知られてきた。新潟港から高速ジェット船で約1時間、通常のフェリーなら2時間以上かかり、天候によって欠航も多い。島内には鉄道がなく、バスも本数が少ないため、観光には自家用車やレンタカーが欠かせない。金山遺跡や能楽文化、豊かな自然など魅力は多いものの、「行きにくさ」が壁となってきた。
そんな島に2023年、台湾出身の廖慶瑜さんが開いた小さな台湾食堂「慶幸屋」が誕生した。店は温かな家庭の味を大切にし、島民や旅行者をつなぐ文化交流の拠点となっている。オープン当初、島の人々からは「台湾料理は辛いのでは?」とよく聞かれたが、実際に魯肉飯や鹹豆漿、鶏肉飯を口にした人々は「優しい味わいで安心する」「家庭のご飯のようだ」と語り、少しずつ支持を広げている。
台湾料理店「慶幸屋」は佐渡島に店を構え、繊細で親しみやすい家庭の味を提供している。(写真/慶幸屋提供)
涙を誘う魯肉飯 台湾の味が地方に息づく 廖慶瑜さんが伝えたいのは「台湾の家庭で毎日のように食べられる味」を再現することだ。魯肉飯のような台湾の定番料理に加え、佐渡の旬の野菜を取り入れた創作メニューや味噌スープをアレンジした料理にも挑戦し、「慶幸屋」は台湾の食文化を守りながら、地域社会と共に息づく場を目指している。手作りのピーナッツ豆花は懐かしくも上品な味わいで人気を集め、常連客だけでなくSNSや観光情報を頼りに訪れる旅行者も後を絶たない。
ある台湾人旅行者は魯肉飯を一口食べて涙を浮かべ、「こんな遠い島でこの味に出会えるなんて、本当に家に帰ったようだ」と語ったという。廖さんは「慶幸屋」を単なる食堂ではなく、台湾料理を手作りで伝える工房、さらには地元コミュニティと文化交流を広げる拠点にしたいと考えている。「離島という距離は、人の心の距離をむしろ近づけることもある。この店が誰かの人生を振り返る時の“慶幸”になれば」と彼女は願う。
佐渡島の台湾料理店「慶幸屋」は地元食材を取り入れ、その取り組みが地元紙でも紹介された。(写真/慶幸屋提供)
知床半島で架け橋となる台湾人ガイド 北海道東部の知床半島は、雄大な自然と流氷で知られる世界自然遺産だが、アクセスは困難を極める。台湾から訪れるには東京や大阪を経由し、女満別空港や釧路空港へ乗り継ぎ、さらに数時間かけてバスや車で宇登呂や羅臼に到達する必要がある。鉄道はなく、バスの便数も限られ、冬は大雪や流氷の影響で道路封鎖や船便の欠航もしばしば起きる。まさに「世界の果て」と呼ぶにふさわしい地で、十分な準備をした旅行者だけが辿り着ける場所だ。
この知床で唯一、中国語で案内ができるガイドが台湾出身のLanさんだ。ワーキングホリデーをきっかけに滞在し、初めて「流氷ウォーキング」を体験して以来、この地に惹かれ、10年以上前から定住している。やがて地元漁師と結婚し、コミュニティに溶け込みながら暮らしを続けてきた。「結婚のために残ったのではなく、この生活が本当に楽しいから続けているのです」と彼女は語る。
漁村の日常では「一つ」ではなく「一箱」のホタテを分け合い、ときには未処理のサケ一尾がそのまま贈られる。Lanさんはこれを「海からの豪快な贈り物」と表現し、都会では味わえない人と人との結びつきを実感している。観光船会社で長年働き、唯一の中国語ガイドとして活動する彼女は、「台湾人としての顔を失わないよう常に心がけている」と話す。知床の大自然の中で、台湾と地域を結ぶ静かな架け橋となっているのだ。
Lanさんは知床半島で中国語ガイドとして活動し、台湾からの訪問者に生態系を紹介している。(写真/Lan提供)
自然の魅力を伝える「台湾顧問」 知床で暮らしを共有 Lanさんは知床のオンラインコミュニティ運営を支え、「台湾顧問」として地域振興に携わっている。観光受け入れの仕組みづくりに助言を行い、台湾から訪れる旅行者には「早足で観光地を巡るのではなく、散歩や市場巡り、サイクリングを通じて、地域の日常に触れてほしい」と勧めている。夏は森林を案内するガイド、冬は流氷ツアーを実施し、訪れる人が安全に、かつ深く知床を体感できるよう工夫している。
「私が見せたいのは自分自身ではなく、まだ知られていない知床の暮らしや人々です」と彼女は語る。「観光名所としての知床だけでなく、ここで生きる人々の日常や文化に触れることが、旅人にとって本当の美しさになるのです。」
先入観や偏見に対しては、彼女は笑顔と忍耐で応じてきた。冬の流氷は道東ならではの光景で、夏には鹿やキツネ、シャチ、そして時にはヒグマに出会うこともある。Lanさんは「ここでの生活は、都会の人にとってはまるで映画のワンシーンのよう」と語り、知床を「観光地ではなく、出会いの出発点」と位置づけている。
北海道・知床半島では、秋の漁船接岸後にサケの仕分け作業が行われる。(写真/Lan提供)
小豆島に根付く日台夫婦の魯肉飯 島の文化交流を拓く 瀬戸内海に浮かぶ小豆島は、オリーブの名産地であり、映画『二十四の瞳』の舞台としても知られるが、交通の便は決して良くない。島には空港も鉄道もなく、フェリーや高速船が唯一のアクセス手段だ。高松から約1時間、大阪や神戸、姫路からは2〜3時間かかり、便数も限られている。さらに天候次第で欠航も多く、島に渡れても公共交通は乏しく、観光客は車やバイクで移動せざるを得ない。
この地に、台湾出身の蘇陳詩瀚さんと日本人の妻・清家真弓さんが営む台湾料理店「agon」がある。3年前、夫婦はまだ2歳に満たない子どもを連れて台湾から土庄町に移住し、都会を離れて島暮らしとゼロからの起業に踏み出した。蘇さんは「子どもにより自然で健やかな環境を与えたかった」と移住の理由を語る。真弓さんは過去に小豆島で働いた経験があり、子どもたちの無邪気な姿や四季に寄り添う生活に深く心を打たれていた。コロナ禍で両親の支援を得られない状況も重なり、夫婦は島に腰を据える決断を下した。
日台夫婦の蘇陳詩瀚氏と清家真弓氏は、小豆島で台湾料理店「agon」を開業した(写真/agon提供)
「agon」は台湾語の「阿公」から 料理が呼び起こす記憶と郷愁 言葉の壁や就職の難しさを前に、蘇陳詩瀚さんは起業を決意した。飲食の経験はなかったが、魯肉飯や蘿蔔糕といった台湾の家庭料理を独学で習得。店名「agon」は台湾語で「阿公(おじいちゃん)」を意味し、台北で酒楼を営み、高い料理技術を誇った祖父への敬意を込めて名付けたものだ。
人口が少なく、観光の繁忙期と閑散期がはっきり分かれる小豆島で、蘇さんと清家真弓さん夫妻は「台湾料理は中華料理とは違う」という思いを込め、手作りにこだわった料理を提供している。看板メニューの魯肉飯や鶏肉飯、蘿蔔糕は、日本本土や台湾から訪れる観光客を惹きつけ、「これこそ本物の台湾の味だ」と口にする人も少なくない。
夫妻は店の運営に加え、各地の市場やイベントにも参加し、台湾料理の魅力を広めている。ある時は愛媛から来た高齢者が「蘿蔔糕を見るのは初めて」と言いながら4つまとめて買って帰ったという。蘇さんは「私たちの料理はただの食事ではなく、記憶や郷愁を呼び起こす架け橋なんです」と語る。夫妻にとって「agon」は店以上の存在であり、離島・小豆島という舞台で、味と物語を通じて日台文化交流を日常的に紡いでいく夢の拠点なのである。
小豆島の台湾料理店「agon」では、魯肉飯や蘿蔔糕が提供され、日本の高齢客も驚きながら味わっている。(写真/agon提供)
台湾人インフルエンサー・アレン 日常の中に潜む「非凡」を伝える 日本で長く活動する台湾出身の人気インフルエンサー、アレン(Allen)さんは、SNSや動画を通じて地方に根ざした日本の魅力を発信している。日本の公式ガイド資格を持ち、熊本県や三重県、福島県など地方自治体とも連携。台湾からの旅行者に「都市観光だけではわからない日本の素顔」を伝える役割を担っている。
アレンさんが強調するのは「日本の真の魅力は地方にある」ということ。都市は観光情報も交通も整っているが、心に残る旅は小さな町や山村、温泉街での人とのふれあいだという。「観光名所を紹介するだけでなく、その土地の人情を持ち帰ってほしい」と話す。
最近訪れた群馬県の赤城山北側「北赤城」では、地元の海産物やブランド牛「花苑牛」、郷土料理の鮟鱇鍋を紹介し、陶芸やガラス工芸体験を通じて地域文化を掘り下げた。高齢の夫婦が営む陶芸工房では「体験後にお茶とお菓子をごちそうになり、土地の温もりを実感した」と振り返る。
アレンさんはガイド資格を持ち、その記録を動画化してSNSで公開。景色だけでなく、住民の暮らしや息づかいも映し出している。「都市観光では味わえない温かさを届けたい」と語り、旅行を単なる観光の積み重ねではなく、人との出会いと記憶の交錯と捉えている。将来的には、より多くの人に日本の田舎道を歩き、地域の人々と出会い、日常の中に潜む“非凡さ”を体験してほしいと願っている。
インフルエンサーのアレン氏は「日本の真の魅力は地方にある」と語り、多くの人々に田舎を訪れてほしいと呼びかける。(写真/黄信維撮影)
台湾人は日本が大好き 観光客数がコロナ前水準を突破 2025年6月2日、鳥取で開かれた「日台観光サミットフォーラム」で、日本政府観光局(JNTO)の伊与田美歴理事が報告を行った。それによると、2024年の訪日外国人観光客数は3687万人に達し、過去最高を更新したという。特に3月には月間で初めて1000万人を突破し、4月も390万人に到達。急速な回復を裏付ける数字となった。
この流れの中で、台湾からの訪日旅行者も604万人に上り、こちらも記録を更新。伊与田理事は「台湾は長年、日本観光を支えてくれた大切な市場であり、航空便の本数もすでにコロナ前を超えている」と強調した。2024年夏には、台北・高雄・台中と日本25都市を結ぶ週656便の直行便が運航し、地方と台湾を結ぶ交流がかつてない規模に拡大。特に2025年5月29日に新規就航した「鳥取米子-桃園」線が注目を集めている。
統計によれば、台湾人訪日客の約8割はリピーターで、そのうち4人に1人は10回以上訪れている。この層が地方観光を支える存在となっており、台湾は「宿泊総数」「宿泊占有率」ともに日本の地方都市で第1位。2024年の延べ宿泊数は868万人に達し、2019年比で14.7%増加した。宮崎や新潟といった地域では宿泊者数が倍増し、直行便復便の効果が明確に表れている。
一方で伊与田理事は、急速な回復が「オーバーツーリズム」の懸念につながるとも指摘。観光庁は高付加価値体験や限定型の観光商品を推進し、人の集中による負荷が大きい地域への支援を進めている。現在進行中の3年観光戦略も最終段階に入り、消費拡大や地方観光振興、持続可能性の強化を重点に据えている。台湾市場に向けては、四季の料理や体験をテーマとした地域プロモーションを展開し、直行便のある都市を拠点にさらなる交流を深めていく方針だ。
2024年、台湾からの訪日客は604万人に達し、記録を更新。そのうち約8割がリピーターだった。(写真/颜麟宇撮影)
地方創生の担い手として台湾人が果たす役割 台湾の民進党立法委員・陳冠廷氏は、日本留学や現地での長期観察を通じ、「台湾人は日本の地方創生において重要な役割を担っている」と指摘する。
その背景にはいくつかの要因がある。第一に、歴史的な結びつきだ。嘉南大圳を建設した八田與一の功績は今なお台南で記念されており、このような前向きな歴史の記憶が地方政府や住民の台湾人に対する信頼感を生んでいる。また、2011年の東日本大震災の際に台湾が多額の義援金や支援を行ったことも、日本人の間に強い感謝の念を残し、台湾人を温かく迎える土壌となっている。
第二に、文化的理解の優位性が挙げられる。台湾では多くの人が子どもの頃から日本のアニメやドラマに親しみ、日本文化に自然に触れて育っているため、日本社会に溶け込みやすく、他国の人にはない視点や創意ももたらすことができる。
さらに、制度的な後押しもある。「地域おこし協力隊」は3年間の給与補助を行い、外国人に地方で暮らし働く機会を提供する仕組みであり、日本の生活を体験したい台湾の若者にとって魅力的な選択肢となっている。実際、台湾と日本の交流は双方向に進んでいる。2025年には嘉義県の翁章梁県長が千葉を訪問し、廃校を「道の駅」として活用する事例を学ぶなど、台湾側も日本の経験から地方振興の知恵を取り入れている。
陳氏は「台湾人が日本の地方に根を下ろすことで、両国の関係は観光や経済を超えた人と人との結びつきへと深化している」と強調する。
民進党立法委員の陳冠廷氏(右)は、台湾人が日本の地方創生で重要な役割を果たしていると語る。(写真/颜麟宇撮影)
「日本が教え、台湾が学ぶ」時代を超えて 三方に利益をもたらす新たな関係へ 民進党立法委員の陳冠廷氏は、飛騨市の神岡高校や吉城高校と嘉義・新港や台南の芸術高校がMOUを結び、交流を続けていることを紹介し、「将来の協力関係にとって大きな意義がある」と語る。彼によれば、日台の地域交流は1994年、日本側が台湾で「社会づくり」活動を始めたことから本格化し、その後も途切れることなく続いてきた。
例えば阿里山コーヒーを例に挙げると、日本人起業家の伊藤篤臣氏がその魅力に惹かれて台湾へ移住。鄒族と協力しながらブランドを育て、京都に店舗を構えるまでに発展させたという。こうした「逆方向の交流」によって、日台の協力は「日本が教え、台湾が学ぶ」という一方的な関係を超え、新たな価値を生み出す段階に入ったと陳氏は強調する。
台湾人が日本の地方創生で成果を上げられるのは、個々の努力だけではない。日本文化への理解力、独自の発想力、そして台湾の観光市場とのネットワークを兼ね備えていることが、日本の地方にとっても大きな強みとなっている。
現在、全国で約8000人が活動する「地域おこし協力隊」には台湾人も多く参加しており、任期を終えた後も起業や定住に結びつく例が少なくない。これは「日本の地方に必要な人材」「台湾の若者にとっての成長機会」「日台関係の深化」という三方すべてに利益をもたらす関係だと陳氏は指摘し、「単なる人材交流ではなく、新しい国際協力の形」と表現した。
陳冠廷氏は、日台地方協力が新しい段階に進み、三方に利益をもたらす関係を築いていると指摘する。(写真/颜麟宇撮影)
台湾人が離島に根を下ろし 地域と世界をつなぐ窓口に 多くの台湾人が日本に滞在する理由は都市部での就業だが、その一方で本土から遠く離れた島々に定住し、新たな役割を担う人々もいる。東京でBIM(建設情報モデリング)エンジニアとして働くShinさんは、都市には確かに資源や仕事の機会が集中しており、商業施設や博物館、学校、病院、ホテルなど幅広いプロジェクトに携われると語る。一方で地方では案件が住宅に限られることが多く、範囲が狭まるとも感じている。
しかし、五島列島、淡路島、佐渡島、知床半島、小豆島といった、時に日本人ですら忘れがちな土地では、台湾人が偶然の出会いや結婚、起業や文化活動を通じて根を下ろし、地域に新しい息吹をもたらしている。
これらの島々は台湾との姉妹都市協定など公式な制度的つながりがあるわけではない。それでも、台湾人の小さな努力が地域と外の世界を結ぶ「窓口」となり、日本の地方の物語は国境を越えて広がっていく。陳氏は「これは目に見えないが確かな絆であり、日台双方にとって切り離せない縁となっている」と述べている。