台湾出身の余聖傑選手、プレミア12&プロ野球日本一の立役者

横浜DeNAベイスターズのブルペン投手を務める余聖傑。(「(C)YDB」)
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台湾は2024年の世界野球プレミア12で粘り強さを見せ、国際大会で初の優勝という好成績を収めた。一方、日本代表チームには台湾出身のメンバーがおり、それが今年日本一に輝いたDeNAベイスターズに所属し、中学校卒業後に日本で野球人生を歩んでいる余聖傑である。

『風傳媒』の独占インタビューで、彼は自身の経験を語り、重要な形容詞は日本語で強調し話しくれた。また、彼の野球人生を育んだ日本と、今回好成績を収めた母国台湾との間で複雑な感情を抱きながらも、台湾の野球レベルが向上していることを喜ばしく思うと率直に語った。

余聖傑は台湾台東出身で、現在は横浜DeNAベイスターズのブルペン投手兼チームアシスタントを務めている。高校は福岡第一高校に進学し、その後日本経済大学で野球選手としてのキャリアをスタート。

中学卒業時に日本留学のチャンスがあったが、当初は「行きたくない」と

大学卒業後、余聖傑は日本の社会人野球チームに加入し、滋賀高島ベースボールクラブ、その後OBC高島チームで豊富な経験を積んだ。2021年には横浜DeNAベイスターズに正式加入し、選手のトレーニングを支援しチームアシスタントを務める。さらに2023年のクラシック、2024年の世界野球プレミア12で、2度にわたり日本代表チームのブルペン投手を務めた。

インタビューで余聖傑は自身の成長背景について語り、幼少期から野球に触れた経験や日本行きを決意したきっかけを振り返った。彼は台東県新生中学校の出身で、新生中学校は2年に一度、日本の高校と交流を行っている。

当時、日本の高校は新生中学校の優秀な選手の獲得を希望しており、新生中学校のコーチ陣が余聖傑にこの機会を推薦し、これが彼の日本留学のきっかけとなった。このチャンスは彼自身も信じられず、当初は両親ともにこの提案に対して慎重な態度を示していた。「最初は不可能だと思った。日本はとても遠いし、全く見知らぬ環境だったので、無理だと思った」

2022 PTWA全國自走車大賽移師臺東,7月28、29日一連兩天在新生國中體育館盛大登場。(圖/臺東縣政府教育處提供)
台東県新生中学校体育館。(資料写真、台東県政府教育処提供)

それでもコーチ陣は彼に大きな期待を寄せ、彼の真面目な性格なら日本でも活躍できるのではないかと考えた。ここで彼も日本語の「真面目」という言葉を使って表現。コーチ陣は2週間後に再び訪れ、この貴重な機会を掴んでほしいと願った。何度も話し合いを重ねた末、彼と両親は最終的にこの挑戦を受け入れることを決意。余聖傑は「当時、両親と長時間話し合い、このチャンスは不可能ではないと感じた。そこで最終的に日本行きを決意し、高校と大学の7年間だけと設定した」と。しかし、余聖傑の予想に反して、この旅は7年では終わらなかった。「7年後、まさか今まで続くとは思わなかった。もう20年以上ここにいる」と感慨深げに語った。 (関連記事: 舞台裏》野球台湾代表が必死に表現したあのサイン! 「Team Taiwan」アイデンティティの誕生秘話 関連記事をもっと読む

大学卒業後、台湾に戻るつもりが20年以上の滞在に

おそらく他の外国人と同様に、初めて見知らぬ環境に来た時には困難や課題に直面したが、それらを一つ一つ乗り越えていった。余聖傑はこれまでの経験を語る中で、各段階で異なる課題に直面し、特に来日当初の言語の壁に大きな困難を感じたと率直に語っている。「最初は全く日本語が話せず、先輩たちの助けに頼るしかなかった。例えば陽岱鋼さんは高校時代の先輩で、多くのことを教えてもらい、たくさん助けてもらった」また、日本の野球文化の厳格さと台湾の自由なスタイルは全く異なると述べた。