1988年1月、台湾総統 ・蔣経国が亡くなる前日、一人の科学者が家族と共に米国へ亡命した。張憲義氏──かつて中科院第一所(現・原能会核能研究所)の副所長を務めた核エンジニアであり、米中央情報局(CIA)に台湾の核兵器開発計画の全貌を提供した人物だ。 張氏の行動により、台湾は「核保有」という国家方針を実現できなかった。ブルームバーグ が8日に公開した長編インタビューでは、多くの台湾人が彼を「裏切者」と見なす一方、「過小評価された英雄」として、世界を核災害の危機から救ったと評価する声もあると報じた。
当時の国際環境や両岸関係は現在とは大きく異なっていたが、広島・長崎への原爆投下から数十年を経て、世界は再び危険で予測困難な核時代に入っている。ロシアによるウクライナ侵攻、イスラエルと米国によるイラン攻撃、そしてドナルド・トランプ米大統領の信頼性への疑念が、「誰が核兵器を持つべきか」という国際的共通認識を揺さぶっている。
中国は急速に核戦力を拡大しており、日本や韓国でも核兵器保有の是非を巡る議論が強まっている。さらに、米露間の「新戦略兵器削減条約(New START)」は来年失効予定であり、延長されなければ両国の核兵器数は制御不能となる恐れがある。 米ワシントンのカーネギー国際平和財団で核政策を研究するアンクィット・パンダ上級研究員は、「状況は改善する前に悪化し、冷戦後初めて本格的な軍拡競争が始まるだろう」と警告している。
1988年、張憲義氏は米国に亡命し、台湾の核兵器開発計画を米側に伝えた(写真/Xより) ブルームバーグによると、張憲義氏はテネシー大学で核工学博士号を取得し、台湾の秘密兵器計画において最も経験豊かな核エンジニアの一人だった。米国は台湾防衛を約束し、核の傘の下に置いていたが、台湾の指導部は「自前の核兵器こそ最良の防御」と信じていた。
CIAは核拡散を阻止するため、張氏に接触し、彼の提供する情報をもとに台湾政府へ圧力をかけ、核兵器開発計画の放棄を迫った。
「東風-41」の諸元・ 台湾の核兵器開発計画は1964年、中国がタクラマカン砂漠で原爆実験を成功させ「核クラブ」入りしたことに端を発する。この事態は台湾と米国に不安を与え、米国は台湾に核兵器を配備した。 しかし蒋介石総統は「新竹計画」を指示し、原子力発電開発を装って秘密裏に核兵器開発を推進した。この構図は、現在の西側諸国がイランの核開発を批判する状況に酷似している。 当初、台湾は米国政府に計画を隠していたが、1968年に張氏が秘密兵器計画に参加。1969年にはテネシー州に派遣され、この頃からCIAが彼に関心を寄せ始めた。当時の張氏は台湾に核兵器が必要だと強く信じ、米側の接触を断っていた。「台湾も原子爆弾を持つべきだ」というのが当時の信念だった。
しかし、昇進と経験を重ねる中で、張氏の信念は少しずつ揺らいでいった。台湾が核を持つことの国際的影響、米国との関係悪化のリスク、そして軍事的エスカレーションの危険性を考慮するようになったという。最終的に、彼はCIAに協力し、台湾の核兵器開発計画を葬ることになる。
核工学の専門家である賀立維氏は、核研究所に原発の主制御室を強化する能力がないと指摘(写真/核研究所公式サイト提供980年、米国の李潔明氏と中国の鄧小平氏が北京市で会談(ウィキペディア)) 張憲義氏が台湾の核武装に疑念を抱き始めたのは、台湾と中国大陸の関係認識が大きく影響していた。彼は「両岸の人々は同じ中国人であり、共通の祖先を持つ」と考えており、両岸の緊張は「内戦」に過ぎないと見ていた。そのため、台湾が核兵器を保有すれば事態は一層危険になると判断した。「大量破壊兵器を作って同胞同士で殺し合うことに意味はない」と語り、「共産党員は好きではないが、中国人は好きだ」と強調した。
1979年、米国は中華民国と断交し、中華人民共和国を正式承認。5年後の1984年、張氏は台湾核能研究所(当時の中科院第一所)副所長に昇進し、CIAとの関係を正式に築いた。それ以前の2年間、彼は断続的に情報を提供していた。1986年4月のチェルノブイリ原発事故は、彼の信念をさらに固める契機となった。
1988年、米国は張氏に辞職を促す行動を開始。彼は核研究所の会議を欠席し、同僚が机の引き出しから辞表を発見した。その後、CIAの手配でシアトルへ移動し、ワシントンD.C.郊外の安全な施設に入った。妻と3人の幼い子供は事前に東京ディズニーランドに渡航しており、米国で再会。米国はこの情報を利用して台北に圧力をかけ、核計画を停止させた。
亡命直後、台湾メディアは張氏を連日報道し、政府は指名手配を出した。CIAは彼をメリーランド州トーソンに移し、さらにアイダホフォールズへ転居させ、アイダホ国立研究所での職を斡旋した。当初は本名を使用していたが、1989年に米国市民権を取得した際に姓に「グレイ」を加えた。
1980年、李潔明氏と鄧小平氏は北京市で会見。(ウィキペディア) 1997年、張氏の役割の詳細が公になった。元米国在台協会台北事務所長で元駐中国大使のジェームズ・リルリー氏は、張氏の行動を「情報と外交の教科書的な古典」と称賛。張氏はリルリー氏と会ったことはないが、この行動の背後にいた「大ボス」だったと考えている。
興味深いのは、CIAが今も張氏の役割を公に認めず、関連文書も機密扱いのままである点だ。ブルームバーグの取材要請にもCIAは応じず、台湾与党・民進党も同様だった。
「廃核、非核の社会」を掲げる声は根強いが、政府は10年以上具体的な行動を取っていない。写真は3月8日の反核デモ・(写真/呉逸驊撮影) ワシントンの科学・国際安全保障研究所(ISIS)を率いるデビッド・アルブライト氏は、台湾の核開発計画に関する最初の詳細な報告をまとめた人物として知られる。その報告書では、張憲義氏と米国の情報機関が「核兵器を持つ中国本土と、核武装した台湾が対立する」という最悪の事態を阻止したと指摘している。ブルームバーグの取材に対し、アルブライト氏は当時の見解は今も変わらないとし、仮に台湾が核兵器の開発に成功したとしても、米国がその後も長期的かつ持続的に軍事的・経済的支援を行うのは困難だっただろうと述べた。
民進党政権はブルームバーグからの質問に答えなかったが、与党・民進党はこれまでも核兵器の開発と保有に反対し、世界的な核廃絶を支持する立場を明言している。ただし、エネルギー安全保障への懸念が政策転換の一因となる可能性も指摘されており、台湾では今月中に第三原子力発電所(核三)の再稼働を問う国民投票が予定されている。
台湾が核開発計画を再開する見込みは低いとされる一方、世界ではいくつかの国で核保有を巡る議論が再燃している。これに対し、米トランプ政権は同盟国の安全保障に消極的な姿勢を見せているとの見方があり、米国務省で軍備管理を担当した元次官補代理マロリー・スチュワート氏も、韓国や日本が核兵器保有の必要性を議論している状況に言及。さらに、米露間の「新戦略兵器削減条約(New START)」の失効や、英国とフランスによる核協力強化の動きに懸念を示した。
日本・広島市の「原爆ドーム」。原子爆弾投下を生き延びた数少ない建造物の一つ。(AP通信) ブルームバーグはまた、張憲義氏に対する台湾当局の指名手配はすでに時効を迎えているものの、彼が帰国を試みたことは一度もないと報じた。ビデオ通話の普及もあって、故郷への郷愁は年月とともに薄れ、今も心に残るのは両親や親戚、そして台湾の牛肉麺などの郷土料理程度だという。核兵器に反対の立場を維持しているものの、反核活動家として行動することはなく、公に意見を表明することも避け、自分なりの形で貢献できる道を模索している。
2003年のイラク戦争開戦前には、イラクの大量破壊兵器計画の査察官職に応募したが、過去の経歴を理由に拒否されたと振り返る。ブルームバーグに対して張氏は、「核兵器のない世界平和を目指す大きな理想があるわけではないが、多くの人から裏切者と呼ばれた」と語っている。しかし、彼の息子が送った手紙には「あなたは間違いなく正しい決断を下した。それは家族のためだけでなく台湾のためでもあった」と書かれており、その言葉が今も彼を支えているという。