中央研究院院士でノーベル物理学賞受賞者の楊振寧氏が、10月18日に北京で逝去した。享年103。楊氏は1956年に李政道氏とともに「パリティ(左右対称性)非保存」を提唱して物理学の常識を覆し、翌1957年にノーベル物理学賞を受賞。中国系として初のノーベル賞受賞者となった。
楊氏は1922年、安徽省・合肥に生まれ、日中戦争の勃発後は西南連合大学に進学。1945年、清華大学の米国留学制度でシカゴ大学に渡り博士号を取得したのち、同大学で教鞭を執り、プリンストン高等研究所ではポスドク研究員として研鑽を積んだ。
少年期 清華学園から西南連合大学へ:ノーベル賞を志した原点
幼少から記憶力と理数の才を示し、4歳で3000字超を習得。中学では上級生向けの代数や幾何の問題を解くほどだった。1929年、父の楊武之氏が清華大学数学科教授に就任すると、清華学園の成志学校に入学し、その後は北京・崇徳中学へ。1934年、図書館で『神秘的な宇宙』に出会い、宇宙の不思議に魅せられて帰宅後に「いつかノーベル賞を取りたい」と家族に語ったという。

呉大猷氏、王竹渓氏のもとで 群論から清華の修士課程へ
1938年、16歳で西南連合大学理学院に合格。1942年、呉大猷氏の指導で「群論と多原子分子の振動」に関する卒業論文をまとめ、同大学物理学部を修了。のちに清華大学の研究院で王竹渓氏の下、研究生活に入った。
甲板の誓い 米国航路で受けた屈辱、学問で報いる決意
1944年、「超格子の統計理論の研究」で清華大学の理学修士号を取得。同年の公費留学試験に合格し、その年度の物理分野で唯一の米国派遣に選ばれた。渡米の船旅では下層甲板に回され、劣悪な環境に置かれただけでなく、中国人乗客への侮蔑にも直面。学問で報いるとの思いを新たにしたという。

フェルミ氏とテラー氏の推挙:プリンストンの黄金期へ
1948年、「核反応と符合測定における角分布」の研究でシカゴ大学から博士号を取得(指導教員はテラー氏)。卒業後も同大に勤務した。シカゴ時代には物理学の巨匠フェルミ氏との交流が学問的飛躍を促し、1949年にはフェルミ氏とテラー氏の推薦でプリンストン高等研究所の研究員に着任、学界の第一線へと歩を進めた。
楊氏は渡米後、短期間で博士号を得てシカゴ大学からプリンストン高等研究所へ進み、若き留学生から世界的物理学者へと成長した。水爆の父と称されるテラー氏の門下で鍛えられ、オッペンハイマー氏から後継者候補として名を挙げられたこともある。プリンストンでは、長年の憧れだったアインシュタイン氏と同僚となり、統計力学の領域で短いながらも交流を持てたことを、生涯の誇りとして語っていた。 (関連記事: エバー航空の客室乗務員が急逝、総経理ら6名幹部が謝罪 「1週間以内に調査完了を約束」 | 関連記事をもっと読む )

初の中国系ノーベル賞受賞者:台湾学界との深い縁
楊振寧氏は1954年、ミルズ氏とともに提唱した「楊―ミルズ規範場理論」により、その後の素粒子物理学・標準模型の基盤を築いた。さらに李政道氏との共同研究で1956年にパリティ(左右対称性)非保存を示し、物理学の見方を一変。1957年にノーベル物理学賞を受賞した。12歳でノーベル賞を志し、35歳で現実のものとした――中国系として初の受賞者となった逸話は広く知られる。