近年、両岸関係が緊張する中、中国出身・国防部軍事報道官の孫立芳少将が、2025年5月1日に国防部政務办公室主任に就任し中将に昇進することに。知られていないことだが、孫立芳の母である張至雲(本名朱蓮華)は、深い芸術的な造詣と強い信念を持つ京劇の名伶であり、その人生は中国と台湾を跨いでおり、劇的で時代の刻印がある。孫立芳は政戦官科が国防部長办公室主任「大総管」を務めるという先例を作り、その特異な家庭背景が今回の人事異動により議論を巻き起こしている。
孫立芳の母である張至雲は、梅蘭芳の弟子、言慧珠に師事し、青衣の行当を専攻し、若くして中国の京劇界で頭角を現し、名声を得た。しかし、文化大革命の期間中、言慧珠は紅衛兵の批判に耐えきれず自殺し、張至雲も「国民党特務と共謀した」として投獄され、農村に下放され改革勞働を受けた。1978年、文革が終わると彼女は劇団に戻り、名誉を回復し、副教授の地位に昇進し、当時の高給階級の一員となった。
1982年7月、張至雲は親戚を訪問する名目で、孫立芳と娘を連れて横浜に行った。元々中共は、彼女が堅固に中華民国を支持する義兄王慶仁を大陸に帰らせることを望んでいたが、彼女は自由を選び、中国大陸災胞救済総会の協力を得て、同年10月28日に台湾に到着し、「自由を求める決心で三民主義による中国統一の大業に参加する」と公開声明をした。

中国文革孫家は黒五類 孫立芳は母親の自殺を悲鳴で止めた
当時まだ14歳だった孫立芳は、母親と共に台湾に渡った。当時の過程はどうだったのか。そして中国で成長中の彼はどういった状況に置かれていたのか。孫立芳の近しい友人は、当時孫立芳はわずか3ヶ月足らずしか日本に滞在せず、母親と一緒に叔母を訪ねに行ったと語った。その時点で王慶仁は日本で反共華僑の領袖だった。中国は張至雲が王慶仁を「祖国」に呼び戻すことを望んでいたが、日本に行った後、張至雲は中国に戻らないことを決心した。日本に留まるか台湾に渡るかの選択をした結果、中華救助総会に連絡を取り協力のもと台湾に到着した。
実のところ、孫家は文革時代「黒五類」とされ、反革命分子にされた。孫立芳が生まれた時期は、孫家が激しく批判されていた時期だった。孫の友人によると、孫の両親は投獄されており、張至雲は一度自殺を考えたが、縛りことをする直前、母乳を飲んでいた孫立芳の泣き声を聞き、自殺を断念した。以来、彼女は迫害に屈せず、生きることを選んだ。
この友人が語るには、当時孫立芳が母親と一緒に国外に出た理由には、父親が事前に母親と相談し、中国の現状では将来はないと考えたからである。若い孫立芳は外の世界に好奇心と新鮮味を抱いていたが、今回の旅をきっかけに中国に戻ることはなかった。 (関連記事: <点・教育>>風雨暗き中、海峡両岸の現代知識人よ!舞え!舞え! | 関連記事をもっと読む )

義勇軍進行曲を歌える、台湾に来た14歳の孫立芳が軍人生に
孫立芳が台湾に訪れたのは14歳のときだった。彼が中国で小学校を5年間通い、「義勇軍進行曲」まで歌えたことは興味深い。孫の友人はこう振り返る。孫が台湾に来た後、初めに永和中学に1ヶ月通い、その後海山中学に転校した。永和中学では先生が特別に注音符号と繁体字を教えてくれた。その当時は『少年十五二十時』という軍事教育のテレビドラマが人気であり、中正予校に入れば授業料が無料でお小遣いももらえるため、彼は予校の試験を受けた。