台湾・高雄市の最南端に位置する大林蒲地区。中油第五石化工場や中国鋼鉄といった大型工業団地に隣接し、人口約3,000人の古い集落は、数十年にわたり大気汚染や健康被害に苦しんできた。住民からは10年以上前から移転要求が出ていたが、進展は遅々として進まなかった。
ところが2025年8月、高雄市政府は突然方針を転換。従来は2027年に開始予定だった土地買収協議を1年前倒しし、2026年前半に着手すると発表した。背後には住民の怒り、2026年の市長選をにらんだ政治的計算、さらには中央政府との予算調整が絡んでいる。その矢面に立つのは陳其邁市長だ。

大林蒲「魂の人物」死去で高まる不満
大林蒲の苦境は今に始まったことではない。1970年代に工場が進出して以来、漁業と信仰を基盤としたこの集落は工業施設に囲まれ、PM2.5濃度は市街地より高く、肺腺がんや心血管疾患の発生率も顕著に高いと環境団体は指摘する。
「夜は煙の臭いで眠れず、窓も開けられない」。住民の健康被害だけでなく、不動産価値も失われ、「住めず、出られない」状況が長年続いてきた。2018年に政府が初めて移転計画を打ち出したものの、補償額や移転先をめぐる議論が難航し、実現には至らなかった。
その中で自救会会長・黄琨育氏は移転要求を先頭で訴え続けてきた「魂の人物」だった。だが、最近病で亡くなり、住民の不満は爆発。「人が亡くなっても政府は何も答えていない」との声が相次ぎ、陳市長への圧力は一気に高まった。

選挙と中央の思惑 移転前倒しの背景
実は陳市長は2025年5月時点で「移転は早くても2027年」と述べていた。経済部が土地買収や補償の枠組みをまだ固めていなかったためだ。しかしわずか3カ月後、第16回移転特別会議で「2026年前半に開始」と発表。急転直下の方針転換となった。
背景には複数の要因がある。住民の怒りが爆発寸前に達していたこと、黄氏の死で抗議行動に発展しかねない状況だったことが第一の要因だ。加えて、中央政府側も態度を変え、陳市長は経済部の何晋滄次官や行政院の政務委員と協議を重ね、予算前倒しを取り付けた。
さらに大きいのは2026年の選挙だ。民進党の「南部鉄板区」と見られてきた高雄も安泰ではなく、民進党の林岱樺立法委員は司法案件を抱えつつ「暗黒勢力と最後まで戦う」と宣言。リコール連敗で党勢が落ち込む中、林氏が離党して出馬するとの噂が地元で広がっており、もし現実化すれば民進党の地盤が揺らぎかねない。陳市長にとっても危機回避のため移転前倒しは不可欠だった。

民進党「南部神話」に揺らぎ 陳其邁市長、中央に予算前倒しを直訴
地元関係者は、民進党の林岱樺立法委員が長年地盤を築いており、たとえ党の支援がなくとも家族の政治資源を背景に独自出馬できると指摘する。これは民進党にとって大きな脅威であり、高雄がもはや「絶対的な緑の牙城」ではなくなったことを意味する。2018年には韓国瑜が市長選で高雄を「青」に転じさせ、2022年には台南でも選挙が接戦となった。かつて「民進党なら西瓜を立てても当選」とまで言われた南台湾の鉄板神話はすでに崩れつつある。もし2026年の地方選挙で高雄が民進党の手から離れる事態となれば、2028年の中央政権維持は極めて困難になるだろう。