アメリカのトランプ大統領は、任期中のわずか数か月の間にインド外交で大きな波紋を呼んだ。一方でインドの宿敵であるパキスタンに公開の友好を示し、他方でインドには50%の高率関税を課す措置を実施した。関税は8月27日から発効している。これまで米国にとって、中国をけん制する重要なパートナーだったインドとの20年間の関係は、トランプ大統領の行動により大きく揺らいだと専門家は指摘する。「地政学的自傷行為」に等しいとの評価もある。
こうした状況下、インドは新たな外交選択を迫られている。モディ首相は7年ぶりに中国を訪問し、「上海協力機構(SCO)」サミットに出席。これにより「中露印三国の枠組み」が復活する可能性も取り沙汰され、西側諸国に対抗する新たな勢力として注目されている。『エコノミスト』 や『フォーリン・ポリシー』の専門家は、トランプ大統領の「衝動的外交」に対し、インドが中露との協力を強めるのか、それとも米国・西側民主主義諸国との関係を維持するのかが、インドの多極化した国際舞台での将来を左右すると分析している。
トランプ氏の「印パ和平大使」発言が火に油 印パ関係は長年、インドの敏感神経を刺激してきた。インドはパキスタンがテロリストを黙認・支援していると非難し、アメリカもインドの懸念を理解してきた。しかし今年5月、インド支配下のカシミールで24人が死亡するテロ攻撃が発生。多くがヒンドゥー教徒男性であったことから、印パ間で短期間の衝突が起きた。
米国の立場は一貫せず、「インドに自主的対応を任せる」と見せかけつつ「双方のミサイル発射停止を求める」など二転三転した。これによりインドは、自国が「侵略者」と見なされていると感じたという。
さらにトランプ氏は、自ら「貿易制裁で停戦に導いた」と自慢し、カシミール調停の構想を打ち出すなど、インドにとって最も敏感な国境問題に踏み込んだ。専門家によれば、トランプ大統領が「和平をもたらした」と公言した回数はすでに40回に上る。
トランプ氏のパキスタン寄り外交により、米印防衛関係は大きく揺らいだ。2020年6月にはホワイトハウスでパキスタン陸軍参謀長ムニール氏を接遇し、パキスタン側はトランプ大統領を「ノーベル平和賞候補」と称賛。さらにパキスタンの石油・ガス開発支援を表明し、「いつかインドは君たちからエネルギーを買わざるを得ない」と皮肉交じりに発言した。
インドは長年、中国をけん制する重要なパートナーとみなされ、2014年には「重要防衛パートナー」に指定されていた。正式同盟ではないものの、高度な米国製防衛技術の取得が可能となり、同時に中国はパキスタンに先進兵器を供与。5月の印パ衝突では、パキスタンが中国製戦闘機を使用し、インド戦闘機5機を撃墜した可能性も指摘されている。
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インドが軍備を急速に増強する必要がある中、米国は従来、信頼できるパートナーとみなされてきた。米国・インド・日本・オーストラリアで構成される「四か国安全保障対話(Quad)」を通じて、10年間の防衛協力枠組みの署名や共同演習、戦闘機エンジンの現地生産支援などが計画されていた。しかし、トランプ氏の行動により、これらの協力の前途は不透明となった。
2025年4月22日にインドが実効支配するカシミール地域で発生した、24人死亡のテロ攻撃に抗議するインドの群衆。インド政府はパキスタンの関与を非難している。 (AP)
エコノミスト:関税は短期的影響は限定も、長期には経済に打撃 4月、トランプ氏が「相互関税」を初めて発表した際、外界はインドが早期に合意するだろうと予想していた。しかし米国側は、インドの譲れない条件、特に農業分野での外資受け入れに関する意欲を読み誤った。7月には交渉決裂を宣言し、まずインド製品に25%の関税を課すと発表。その後、インドによるロシア産原油の購入を理由にさらに25%を上乗せし、合計50%の関税が8月27日から発効した。短期間で、インドは世界で最も高い関税を受ける国の一つとなった。
『エコノミスト』 は、輸出依存度の高い他のアジア諸国と比べ、インドの関税ショックは現状ではまだコントロール可能だと指摘。例えばベトナムは輸出額がGDPの85%を占めるが、インドはわずか11%にとどまる。さらに成長著しい輸出品目、スマートフォンや医薬品などは当面、新関税の対象外だ。元インド貿易官僚のスリヴァスタヴァ氏は、「今後数か月で関税が引き上げられても、経済はかき乱されるが揺るがない」と分析している。
しかし、長期的な影響は軽視できない。インド政府は製造業を国家戦略の中核と位置づけ、海外企業に工場を中国から移転させつつ、米国市場へのアクセスを維持したいと考えていた。だが関税が長期化し、ベトナムやバングラデシュなどの競合国より高い水準が続けば、スリヴァスタヴァ氏は「この構想は潰れる」と警告する。関税が解除されたとしても、インドが「地政学的避風港」としての魅力を維持するイメージは損なわれてしまう。
不確実性の高まりから、インド内ではより悲観的なシナリオも想定される。米国は依然としてインド最大の外資源であり、貿易戦争が激化すれば経済の支柱が直撃される。近年、インドのサービス産業、とりわけソフトウェア開発の輸出は急成長しており、米国大手企業がインドに「グローバル能力センター(GCC)」を設置し、現地のプログラミングや金融スキルを持つ人材を採用している。昨年、この分野は650億ドル(約1.9兆円)の生産額を生み出し、2030年には1,000億ドル(約3兆円)突破が見込まれる。関税や資金フローの制約を受ければ、最大のリスク要因となる。
2025年8月25日、インド・アグラの製造工場で革製靴を生産する労働者。 (AP)
学者「トランプ大統領の行動は地政学的自傷」 過去25年、インドの外交は比較的西側寄りであり、多くの国民は米国を成長の最も信頼できる支援者と考えてきた。しかし、トランプ大統領の行動はこの信頼を揺るがし、「米国に過度に依存することの危うさ」を浮き彫りにした。元インド駐米大使サルナ氏は「我々は、明日何を言うかも分からない人物に盲目的について行くことはできない」と述べている。
英シンクタンク、シンガポール国立大学リー・クアンユー公共政策学部のクレイブトライ氏も『フォーリン・ポリシー』 で、トランプ大統領のインドへの距離の取り方を「地政学的自傷」と表現。ワシントンは20年かけて築いた米印関係を、トランプ大統領の単独主義的行動によって一蹴された形だ。短期的な貿易交渉の駆け引きのため、インドを中国対抗の重要な役割から切り離したことは、まさに自らの足を折る行為に等しい。
一方で、デリーの一部関係者は希望を捨てていない。トランプ大統領のインドへの苛立ちは一時的かもしれず、米国とロシアの和平交渉が進めば、インドへの制裁理由も解消される可能性がある。また、米国が他のアジア諸国と結ぶ協定を見る限り、農業市場の開放は当面の優先事項ではない。しかし、インドは「外国からの指導」に敏感な国であり、米印間に残された信頼の亀裂は長期化するかもしれない。
2025年8月6日、インド社会主義統一センター(共産党)のデモ参加者が、当時のドナルド・トランプ米大統領の肖像画を燃やす抗議活動を行った。 (AP)
インドの対応戦略1:米国との交渉継続 『エコノミスト』 は、インドが今後同時に三つの戦略を進める可能性があると指摘する。まず一つ目は、トランプ氏との交渉を続けることだ。米国内には500万人のインド系住民と30万人以上のインド人学生がおり、両国は技術や防衛分野で緊密な協力関係を維持している。インドは現時点で米国に対して報復関税を課しておらず、トランプ政権への直接的な批判も少ない。外界は、モディ首相が9月の国連総会の場外で米国と会談を模索すると見ている。
また、トランプ氏 は「大きな約束」に弱いとされる。ジョンズ・ホプキンズ大学国際関係学教授のホワイト氏は、近年多くの国が「実現困難な約束」で交渉を切り抜けてきたと指摘。インドも、ロシア産原油の輸入を一部抑えるなどして、トランプ氏 に「インドが譲歩した」という外交的成果を見せることで、関税緩和につなげる可能性がある。しかし、インドにとって容易な道ではない。
インドのモディ首相と当時の米大統領、トランプ氏。 (AP)
インドの対応戦略2:国内改革の加速 二つ目の戦略は、国内改革の推進だ。インドのシンクタンク「タクシャシラ研究所」所長パイ氏は、「トランプ関税への根本的な対応策は、新たな経済改革を打ち出すこと」と述べる。インドが直面する課題は、経済成長を妨げる国内問題の解消であり、外部からの圧力に耐える力を根本的に高めることが急務である。
インド陸軍が国境のカシミール地域で実施している演習の様子 (AP)
インドの対応戦略3:多国間協力の強化 三つ目は、多国間協力の強化だ。2021年以降、インドは英国、EU、アラブ首長国連邦など6件の貿易協定を締結している。軍備分野では、フランスとイスラエルから供給を受け、両国からの武器供給はインド全体の約46%を占める。8月22日には、フランス企業が国産戦闘機のエンジン生産を支援することも発表された。
一方、インドはロシアとの関係強化も進めているが、米国は歓迎していない。関税措置を受け、モディ首相は二度にわたりプーチン大統領と連絡。8月21日には、外務大臣ジャイシャンカル氏がモスクワでラブロフ外相と会談し、二国間貿易拡大を目指した。プーチン氏は天津で開催される上海協力機構(SCO)首脳会議に出席予定で、年内のインド訪問も計画されている。
また、中印関係も再び改善の兆しを見せている。2020年のヒマラヤ国境紛争やインド洋での軍事摩擦で冷え込んでいた関係は、米印関係の低迷を受けて解凍。インドは中国企業幹部のビザを厳格に制限する一方、対中輸入額は増加しており、2025年3月時点で1,140億ドル(約3.4兆円)に達し、5年前と比べ75%増加した。製薬業では前駆化学品の約7割、スマートフォン産業も中国製部品に依存しており、制限緩和により資金と技術が流入すれば、インド製造業の高度化と輸入依存の低減が進む可能性がある。
2025年7月24日、英イングランドのエールズベリー近郊の学校を訪問した英国のスターマー首相とインドのモディ首相。
「中露印三方メカニズム」復活の可能性、アメリカへの対抗勢力となるか? ロシアと中国が、米国のトランプ政権との間に溝が生じているインドを積極的に引き寄せようとする動きが活発化している。その一環として、インドのナレンドラ・モディ首相は8月31日、7年ぶりに訪中し、上海協力機構(SCO)の場で中国の習近平国家主席、ロシアのプーチン大統領と会談に臨んだ。
中国、インド、イラン、パキスタン、ロシアなどが加盟するSCOは、近年、「非西側的な世界観」を体現する重要なプラットフォームへと変貌しつつある。
英国のシンクタンク、王立国際問題研究所(チャタムハウス)で南アジアを専門とするチエティグジ・バジパイ氏とユー・ジェー氏は、外交専門誌『フォーリン・ポリシー 』 への寄稿で、今回の会談のより広い意義について分析している。両氏によると、この会談は中印両国が外交上の「戦略的自律性」を再確認するものであり、以下の3つの核心的な目標を共有しているという。
2、米国との関係が緊張する局面において、周辺地域の安定を最優先する。
3、両国とも、反西側的な「修正主義勢力」ではなく、「改革型大国」として見られることを望んでいる。
これまで、中国とインドはこれらの目標を「協力して達成する」というより、「それぞれが個別に、並行して追求する」傾向が強かった。インドは当初、SCOをさほど重視しておらず、2022年から2023年にかけて議長国を務めた際も、その重要性を意図的に薄めるため、あえてオンライン形式での会合開催を選択したとされている。当時、インドがより注力していたのは、G20サミットの主催であった。 しかし、米印関係の悪化を背景に、モディ首相はSCOの価値を再認識したとみられ、今回の対面会談に至った 。
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この会談で国際社会が特に注目しているのは、長年活動が停滞していた「中ロ印三者枠組み(RIC)」が再始動するかどうかである。
1990年代に誕生したこの枠組みは、当初、米国が主導する国際秩序への批判を共有する場であった。特に、西側諸国が「人権」を名目に領土保全や主権の原則を軽んじているという懸念を表明してきた経緯がある。しかし、その後インドが米国との関係を深めるにつれて、RICの活動は次第に縮小していった。
もしRICが復活すれば、それは国際的な潮流の逆転を意味する。中国、インド、ロシアの3カ国は、世界的な課題に対し、より積極的に協調し、共同で発言していく可能性がある。さらに、西側主導の金融システムを迂回するため、自国通貨での二国間貿易決済を推進するなどの具体的な行動に移ることも予想される。中国の製造力、インドのサービス業、ロシアの資源というそれぞれの強みを生かすことで、世界の貿易構造を大きく変革する可能性も指摘されている。
米国の影響力が低下し、国際情勢が多極化する中で、中印両国の利益が収斂する傾向は今後さらに顕著になるだろう。アナリストは、この動きは少なくとも、米国政府にインドの役割を再検討させることにつながると分析している。もはや、インドを「中国への対抗勢力」としてのみ捉えるのではなく、より現実的な期待を構築する必要がある、との見方が強まっている。
2024年10月23日、ロシア・カザンで行われたBRICSサミットでの、インドのモディ首相(左から)、ロシアのプーチン大統領、中国の習近平国家主席。 (AP)
学者の警告:「中ロへの傾倒は大きな過ち」 インドが中ロに接近する動きに対し、外交専門誌 『フォーリン・ポリシー』 に寄稿した学者のクレーブツリー氏は警鐘を鳴らす。同氏は、現在の米国は取引的で予測不能な外交姿勢をとり、時に威圧的であることは否めないとし、インドを含むすべての米国の同盟国がそれを目の当たりにしていると指摘する。
しかし、たとえそうだとしても、技術的に先進的な民主主義国家との関係を断ち、先行きが不確実な権威主義国家に傾倒することは賢明ではないと主張している。
クレーブツリー氏は、インドが大幅に中ロに傾けば「深刻な過ち」を犯す可能性があると警告する。インドの経済成長には外資が不可欠だが、産業技術やデジタル化の面では、中国やロシアが提供できるものは限られている。特に、勢いを増し続ける中国は、依然としてインドにとって最も深刻な戦略的脅威であるという事実は変わらない。
「たとえワシントンとのホットラインが一時的に中断されたとしても、モディ首相にはヨーロッパをはじめとする他の多くの国からの電話が待っている」とクレーブツリー氏は記している。今回の外交的な動きは、多極化する国際情勢の中でインドがどのような立ち位置を築くのか、その将来を決定づける外交大試験となるだろう。