台湾・頼清徳総統は「災厄級の演説者」と呼ばれるにふさわしい人物である。彼の掲げる「団結国家十講」は第三講に突入したが、やはり今回も問題を起こした。他人が「三度目の正直」とすれば、彼は「二度あることは三度ある」タイプである。ただし、その「必ずやらかす」性質のおかげで、「団結十講」のライブ配信は視聴数が倍増し、多くの人々が揚げ足を取ろうと視聴するようになった。
今回はさらに厄介だった。なぜならテーマが「憲政制度」だったからだ。SNS上では、さまざまな立場のユーザーが「憲政史のミニ講座」を次々に開設し、中華民国の憲法制定史を一から語り直す事態に。これを通じて、総統自身がいかに「憲法の授業」で赤点を取るレベルなのかが浮き彫りになった。
賴清徳総統、大きな誤り!台湾人の憲法制定参加は当然のこと
頼清徳総統は演説の三分の一を費やし、台湾で行われた七回の憲法改正の要点を述べた。やや冗長な印象もあったが、かつて国民大会代表として改憲に関わった自身の経歴を誇示したい気持ちは理解できなくもない。加えて、この7回にわたる憲法改正は、「台湾独立論者」や「台湾主権優先論者」、さらに「台湾運命共同体」の立場を取る人々(李登輝元総統を含む)にとって、理論的基盤となってきた。
たとえば、総統の直接選挙制は国民主権の具現であり、「国家主権」の表現とされる。また、省の機能凍結(実質的な廃止)によって、「台湾省」という存在が消え、「台湾(省)は中国の一部である」との主張は成り立たなくなる。
7回の憲法改正により、「憲法増修条文」はすでに「中華民国憲法」の付随物ではなく、まったく新たな創作物となった。これは「中国大陸を含む」統治体制を示すものではなく、2300万人の台湾人の「共通の民主的意識」を体現するものである。分かりやすく言えば、7回の改憲はすべて、民選の国大代表によって主導されており、中国大陸の民意とは無関係である。これは台湾人民の自主的な意思表示であり、大陸地区を排除する形で「増修条文第一条」にも明記されている──「国家統一前に対応するため…」という文言により、将来の統一への安全弁を残しつつ、中国大陸を制度上から除外した。この結果、中華民国は「台湾にある」国家であり、同時に「台湾そのもの」であるという解釈が、今では「中華民国台湾」という呼称として定着しつつある。
こうした論理は台湾独立派の主張に合致しており、国民党としても反論しにくい構図である。なぜなら、7回のうち6回の憲法改正は国民党主導で行われ、第7回目も立法院による改憲案を任務型国大が追認したものであり、当時も立法院は国民党と親民党が多数を占めていたからである。
ただし、頼清徳氏が1936年の「五五憲草」まで話を遡った点は、やや的を外していた。抗戦の影響で最終的に中華民国憲法が制定されたのは1946年であり、五五憲草にも1946年の憲法制定過程にも、台湾からは代表が派遣されていなかった。台湾人がはじめて改憲の主役となったのは、まさにその後の第7回の改憲においてである。
したがって、頼清徳氏の言及は重大な誤りである。台湾人は当然、憲法制定に参加しており、その証左として当時は18名の代表団が派遣されていた。
賴清徳総統の寛容さは蔣介石にすら劣る
「五五憲草」は、中国国民党の憲法起草委員会によって起草されたものであり、その内容は国民党の立場を色濃く反映したものである。当時、台湾はなお日本の植民地支配下にあり、憲法草案の策定に参加することなど不可能であった。
抗戦勝利後に招集された制憲国民大会では、地域別選挙、職業別選挙、さらには「淪陷区」(戦時中に失陥した地域)の政府指派による特別選挙も実施され、さらに1936年に選出された旧国民大会代表の資格も引き継がれた。その中で「中国に復帰した」台湾においては、各県市議会で代表を選出し、さらに台湾省参議会が投票するという間接選挙により代表が選ばれた。
確かに直接選挙ではなかったが、混乱を極めていた中国本土の選出プロセスと比較すれば、台湾の代表選出方式は進歩的かつ文明的なものであった。それにもかかわらず、頼清徳氏が当時の台湾代表を「台湾民主を体現していない」と切り捨てるならば、当時、省議会で最も著名かつ有力であった李萬居氏や、後に立法院長を務めた黄国書氏、台湾初の女性外科医・謝娥氏、さらには二二八事件の犠牲者である黄七郎氏や林連宗氏らが、草葉の陰から立ち上がり、「先人の功績を知らぬ未熟者」と怒りをぶつけるに違いない。
「五五憲草」は、その後の政治協商会議において徹底的な批判を受け、「体無完膚(傷だらけ)」と評されるほどであった。これを受けて登場したのが「政協憲草(政治協商憲法草案)」である。最終的に、政治協商会議は決裂し、中国共産党や中国民主同盟など第三勢力は制憲国民大会から撤退することとなったが、同大会で採択された憲法草案は、依然として張君勱による「五権の名において三権を実行する」体制を基調とし、政協憲草の色合いを色濃く残したものであった。
この憲法案について、当時の周恩来は「至宝を得た」と評した一方、蔣介石は日記の中で「まさかこのような総理(孫文)の革命原則に反する草案を採択するとは。実に笑うに笑えず、泣くに泣けず、どうすればよいというのか」と激しく非難していた。しかしその一方で、「もし当初の五五憲草をそのまま採用していたら、中国共産党から攻撃されるだけでなく、各国からも国民政府がファシズム憲法を作ろうとしていると見なされ、国際的な不信と懸念を招いていただろう。これは計り知れない害となったに違いない」と記し、修正を施したことに安堵の念も示していた。
つまり、最終的に制定された中華民国憲法は、各政党の意見をある程度取り入れた、より開かれた妥協の産物であった。これに比して、頼清徳氏が現在、立法院の野党勢力に対し「粛清」とも取れる姿勢を見せている状況は、かつて「ファシズム」と非難されることを恐れた蔣介石の苦悩と比較しても、むしろ彼のほうが狭量であるとの指摘も否めない。
頼清徳総統は今回もまた、演説時間の3分の1以上を割き、「憲政機関」の役割と機能について説明した。内容は、総統および五院(行政院、立法院、司法院、考試院、監察院)の関係に関するものであったが、要するにこの一年、頼政権が立法院における藍白連合(国民党と民衆党)多数による重要法案の成立を正面から受け止めてこなかった経緯の再述である。
国会改革法案、財政収支劃分法、憲法訴願法、選挙罷免法、総予算案、さらには警察人事条例に至るまで、立法院は多数派として多くの労力を注ぎ、朝野対立を激化させながらも法案を通過させた。ところが、これらの取り組みは最終的に「憲判字第9号」において、憲法法廷によって次々と違憲と判断された。判決は、立法院が総統、行政院、司法院、考試院、監察院の憲法上の職権を侵害したとし、「台湾憲政史上、前例のない判断」となった。
一方で、これに対しては「そもそも過去に、すべての憲政機関が総統の側近部隊のように振る舞う光景など見たことがない」との民意も根強い。確かに、立法院の職権がどこまで拡張できるのかについては議論の余地があり、「国会侮辱罪」のように制度化されている米国の例を参考にする声もある。ただし、台湾社会は元来穏健な気質を持ち、刑罰化にまで踏み込むべきかは慎重に考慮すべきである。
にもかかわらず、憲法法廷は今回、立法院の調査権や質疑権といった既得の憲政機能までも一挙に否定・制限した。これは、憲政秩序のバランスを著しく損なうものであり、行き過ぎとの批判が避けられない。
TSMCを政治利用、馬英九氏への中傷も──総統の刃が台湾社会に深い傷を刻む
頼清徳氏は誤っただけでなく、台湾積体電路製造(TSMC)を再び利用し虚偽の発言を続けている。彼は、TSMCのアメリカ投資について「立法院が呼び出せる」と主張したが、これは昨年すでに藍白連合の立法委員らによって厳しく訂正された内容である。また彼は、立法院が監察院の職権を「越権」していると非難するが、そもそも監察院がこれまで何をしてきたのかを省みることはない。さらに、監察権を制限し、調査権を立法院に返還することは民進党が長年掲げてきた主張であったはずだ。結局のところ、民進党は権威主義政党と何ら変わらず、いったん総統の座につけば、権力を一手に握ろうとする傾向を見せている。
また、頼氏は「国家情報報告の常態化」に触れ、大法官の見解を引用し、総統には立法院で報告する憲法上の義務はなく、立法委員に報告内容を指定する権限もなければ、質疑応答や意見聴取を求める権限もないと述べた。これこそ最大の皮肉である。頼氏は大規模リコールの投票を1か月後に控え、10回シリーズの「団結十講」をライブ配信する時間はあるが、立法委員の建言に耳を傾ける意思はない。彼の国家観、団結観、さらには憲政観がいかに歪んでいるかを踏まえれば、もし立法院に出席すれば即座に論破されるのは明白である。国会の意見に耳を貸さない「民選の総統」は、形式上は民主主義(選挙による選出)であっても、実態は独裁に他ならない。
最後に、頼氏は演説の約3分の1を費やして「市民運動」を語った。野百合運動、野草莓運動、ひまわり学生運動、青い鳥運動、そして大規模リコールへと話をつなげた。民進党の全国大会で「民進党は市民とともに歩む」と宣言した直後、頼氏は再び総動員の号令をかけたのである。しかも今回は「総統」の立場からであり、演説の場は国際ライオンズクラブという市民団体であった。このように市民団体を政党の動員拠点とする行為は、もはや一線を越えたものと言える。
さらに彼は、名前を挙げずに前任者への中傷を続け、「陳雲林が台湾を訪問した際、国家元首が自らを『区長』と称した」と発言したが、そもそも「区長」という表現は一度たりとも自称されたものではなく、民進党が意図的に前総統に貼り付けたレッテルである。頼清徳氏が今、他者に帽子をかぶせるのなら、将来、自らも同じく多くの「帽子」を返される日が来るのではないか。
「団結十講」はまだ三回目に過ぎないが、すでにその内容は「分裂の講話」と化している。失望の声は多いが、大規模リコールの発起人である曹興誠氏にとっては、この展開は期待を上回るものであろう。頼氏の発言の調子からすれば、投票前の共演も現実味を帯びている。ただ、ひとつ確かなことは、たとえ百回演説を重ねたとしても国民の団結は得られないということだ。大規模リコールが成功しようが失敗しようが、頼清徳氏はすでに「総統」という立場をもって、台湾社会の一部に深い傷を残した。──それは、癒えることのない傷かもしれない。