台湾全土を巻き込む大規模リコールの渦中、台湾の対日外交は静かに歴史的な一歩を踏み出していた。7月25日正午、外交部長の林佳龍氏は自身のフェイスブックでリコールに言及し、国内メディアからは「昼休みに政党活動をしているのでは」と批判され、行政中立法の境界線を踏んでいると指摘された。しかし、その投稿の時点で林氏は台北市の外交部本部にはおらず、飛行機で3時間以上離れた日本・東京に滞在していた。
林氏は出国前に友人との会食で訪日予定を伝えていたが、外交部長の出張は珍しくないため特に驚かれなかった。しかし、その後、日本到着が明らかになる。台湾の外交部長が日本を訪れるのは、1972年の台日断交以来53年ぶりの極めて異例のことだ。NHKも「極めて異例」と報じた。公開資料でも、断交後に国民党・民進党いずれの政権下でも外交部長の訪日「公開」記録は存在しない。断交当時の沈昌煥外交部長は1965年に日本を訪れたことがあるが、それ以来の出来事となる。林氏はどのように禁忌を破って日本訪問を実現し、中国の反発を招いたのか。彼は今回、誰と会い、どんな任務を帯びていたのか。
7月26日の大規模リコール投票を前に、林佳龍氏はすでに低調に訪日していた。(写真/陳品佑撮影)
林佳龍氏、外交の禁忌を破り日本訪問 中国の反発必至 林氏が台湾で最後に公の場に現れたのは7月23日午前、ソマリランド外務・国際協力部長の訪台に合わせた会談と、2025年台欧半導体短期研修計画の交流茶会の主催だった。その後、日本に渡った林氏との会談は、自由民主党青年局長の中曽根康隆議員が7月24日夜にSNSで公表。翌25日には日華議員懇談会長の古屋圭司議員も、林氏との会合写真をSNSに投稿した。
古屋議員の投稿が7月25日午後3時28分に出ると、中日双方の外交筋は騒然となった。約6時間後、中国外交部は公式サイトで声明を発表し、劉勁松アジア局長が在中日本大使館の首席公使を緊急に呼び出して、日本が「林佳龍訪問をしつこく誘った」として抗議。翌日、日本大使館は公式サイトで簡潔な声明を出し、前日に劉氏から電話を受けた事実を認めつつ、首席公使の横地晃氏が日本政府の台湾政策を説明したとした。
7月25日、中曽根康隆氏がソーシャルメディアに投稿した写真には、林佳龍氏と日本駐台代表・李逸洋氏が写っている。(写真/中曽根康隆Instagramより)
過去は秘密、今回は日本が積極的に公開 林氏の訪日に対し中国は強く反発し、日本政府に悪影響の回避を求めたが、日本側は冷静な対応を選んだようだ。10年前、当時民進党の総統候補だった蔡英文氏が日本を訪れた際には、北京の抗議を受けて、実際に面会が行われても蔡氏は否認、安倍晋三氏も沈黙していた。しかし今回は、日本側が訪問を公開し、台湾側は否認もコメントもせず、両者間の合意に基づく部分的な公式交流とされている。
特に、日本外務省と米国務省は台湾要人との接触制限ルールが似ており、台湾の正副総統、行政院長、国防部長、外交部長の訪問を制限する「五黒名簿」が存在する。米国はこの「五長」のワシントン訪問を厳格に監視しているが、日本はより保守的で、台湾要人が日本の地を踏むこと自体が難しい。台湾外交パスポート保持者は日本入国にビザは不要だが、免除対象国は63か国に限られている。
2015年10月、総統候補だった蔡英文氏が日本を訪問した際、安倍晋三氏の弟・岸信夫氏が出迎えた。この訪問は外交上の禁忌のため公式には否認された。(写真/顏振凱撮影)
賴清徳氏、安倍晋三元首相の弔問には「素早く」 林佳龍氏は多くの古い友人に会う 日本外務省の内規を破った最近の例として挙げられるのが、2022年に副総統だった賴清徳氏の訪日だ。賴氏は「至親摯友」として安倍晋三氏の弔問に訪れたが、台湾副総統の日本入国は37年ぶりのことで、日本政府はこの訪問を「特例」と位置づけた。賴氏と安倍氏の20年以上の友情が背景にあり、滞在は48時間以内と極めて短期間。公祭の間に議員から食事の誘いを受けても、すべて断ったという。
一方、林佳龍氏は3日以上滞在し、数多くの「古い友人」と再会を果たした。外交部は一貫して林氏の訪日を「私的旅行」と強調している。林氏は外交パスポートを持つが、今回はあえて一般パスポートを使用。台湾と日本の実務的な交流を重視し、他国への配慮を示すためとされる。訪日は賴清德総統の了承を得た上で、日本側も事前に把握していた。
林氏の訪日は約1カ月前に決定され、公式には大阪万博視察が名目とされた。比較的落ち着いた時期を選んだ訪問であり、駐日台湾経済文化代表処を訪れた外交部長としては初の事例となる。外交関係者はこれを「低姿勢の視察」と表現している。林氏の訪日は、単なる観光や友人訪問にとどまらず、日台間の暗黙の合意に基づく半公式の交流だった。
2022年、副総統の賴清德氏は安倍晋三氏を弔問するため日本を訪れたが、極めて低調に行われ、安倍家族以外とは面会していない。(写真/AP)
鄭文燦氏の訪日は秘密裏に 林佳龍氏の外交部長としての訪問はより敏感 台湾では近年、他の高官も日本を訪れている。2023年6月下旬、当時の行政院副院長・鄭文燦氏が経済産業交流団を率いて4日間訪日した。副院長職は「五黒名簿」に含まれず、鄭氏は米国での台湾関税交渉にも参加していた。副閣僚級の訪日例は、1994年に李登輝政権下で副院長が広島アジア大会を視察して以来となる。
一方、外交部長の訪日はより敏感で、中国が強く抗議する理由でもある。今回の林氏の訪日には、鄭氏の訪日手法が一部参考にされていた。鄭氏の訪日は2023年6月26日に始まり、当初は秘密だったが、翌日にSNSで公表されている。
2023年6月、前行政院副院長・鄭文燦氏が低調に訪日したが、林佳龍氏は外交部長としての訪問であり、さらに敏感な動きとなり中国の抗議を招いた。(写真/柯承惠撮影)
日本の首相候補・高市早苗氏との緊密なやりとり 鄭氏は訪日期間中、自民党副総裁の麻生太郎氏と、幹事長の武満敏充氏を訪問した。麻生氏は元首相、武満氏は元外務大臣で、いずれも政界で影響力が大きい。同様に、林氏の会談相手にも影響力のある人物が含まれる。特に注目されたのは、日本側がSNSで林氏の訪問を積極的に公開した点だ。古屋圭司氏が投稿した林氏との会合写真には、日華議員懇談会副会長の高市早苗氏と、事務局長を務める木原稔氏の姿も写っていた。高市氏は元総務大臣で次期首相候補の有力視される存在、木原氏は元防衛大臣として知られる。両者は日華懇メンバーとして林氏と会談したことになる。
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自民党議員の古屋圭司氏(左から2人目)がFacebookに投稿した林佳龍氏(中央)と次期首相候補・高市早苗氏(右から2人目)との会合写真。(写真/古屋圭司Facebookより)
台湾と日本の次の一手 非赤サプライチェーンとエネルギー備蓄が議題に 林佳龍氏が今回会談した次期首相候補・高市早苗氏は、4月27日から29日にかけて議員団を率いて台湾を訪問した。一方、中曽根康隆氏も4月29日から5月3日まで台湾を訪れている。両者が訪台した際には林氏との会談が行われ、賴清德総統や副総統・蕭美琴氏ら台湾要人も迎えた。今回の林氏の訪日には、こうした継続的な関係の積み重ねが背景にある。
近年の日台関係は、非赤サプライチェーンや経済連携協定(EPA)、環太平洋パートナーシップ協定(CPTPP)、さらには台湾海峡周辺の安全保障議題にまで広がっている。高市氏と林氏は、台日の連携強化が不可欠であることを改めて確認。中曽根氏も、台日関係を実質的に深化させ、威権主義の拡大に対抗すべきとの立場を示している。
一方で、今回の林氏の訪日には二国間だけでなく多国間外交への意図も見え隠れする。CPTPPは下半期に第9回閣僚級会議を予定しており、台湾は「台湾、澎湖、金門、馬祖個別関税領域」として加盟申請中だ。外交関係者は、今回の訪日がオーストラリアを超えて日本を含む大国との接触を強化するための布石だと指摘する。高市氏も台湾のCPTPP参加を支持する姿勢を公言してきた。
CPTPPは下半期に第9回閣僚級会議を予定しており、台湾は日本の支持を求めている。写真は2024年11月、バンクーバーで開かれたCPTPP会議の様子。(写真/AP)
台湾高官の訪日 日台外交の新常態化を目指す 林氏の訪日は形式上「個人旅行」とされ、一般パスポートで入国した。しかし実態は極めて公的であり、日本側の黙認を伴う動きとして中国の抗議を招いた。特に、日本が2022年に賴清德氏にビザを発行したことは、新たな外交・防衛政策の一端を示すもので、国内の保守的な反中世論を意識した対応とも分析されている。
林氏は今年1月16日、友邦の大統領就任式に出席する際に特使としての役割を示し、日本外務大臣との会談も行った。その様子は日本メディアでも「極めて珍しい」と報じられた。今回の訪日も「五黒名簿」を事実上突破するものであり、日本メディアの関心は高い。日本国内では対中感情が上昇し、これが台湾外交の追い風となった。外務省内でも対台湾担当部署の格が科長から組長級に引き上げられている。
さらに、日本国内の世論の変化は台湾外交に新たな活力をもたらしている。広島で8月6日に行われる平和記念式典(80周年)で台湾が招待される可能性もささやかれ、9月には日本政局の動きも予想される。日本政府は対台接触のレベルを引き上げ、水面下の連携を強化。今回の林佳龍訪日は、その象徴ともいえる大きな外交突破となった。
林氏の訪日の核心は、協定締結や即時の成果ではなく、これまで禁忌とされてきた外交領域に静かに突破口を開くことにある。外交関係者は、今回の交流モデルが今後「通常化」することを期待しており、中国が強く反発する理由もここにある。国内では大規模リコール問題で政治対立が激化する中、台湾外交は水面下で着実に突破を図っている。もっとも、これが本当の意味での日台交流の新常態となるかは、国際情勢と日本政界の動向次第だ。